業平が高子をさらった事件は、『大鏡』にも掲載されています。「陽成院」の項目です。
五十七代 陽成院 貞明
この后の宮の、宮仕ひしそめ給ひけむやうこそおぼつかなけれ。いまだ世ごもりて御座しける時、在中将しのびて率てかくし奉りたりけるを、御せうとの君達、基経の大臣・国経の大納言などの、若く御座しけむほどのことなりけむかし、取り返しに御座したりける折、「つまもこもれりわれもこもれり」とよみ給ひたるは、この御ことなれば、末の世に、「神代のことも」とは申し出で給ひけるぞかし。されば、世の常の御かしづきにては御覧じそめられ給はずや御座しましけむとぞ、おぼえ侍(はべ)る。もし、離れぬ御仲にて、染殿宮に参り通ひなどし給ひけむほどのことにやとぞ、推しはかられ侍る。およばぬ身に、斯様のことをさへ申すは、いとかたじけなきことなれど、これは皆人の知ろしめしたることなれば。いかなる人かは、この頃、古今・伊勢物語など覚えさせ給はぬはあらむずる。「見もせぬ人の恋しきは」など申すことも、この御なからひのほどとこそは承れ。末の世まで書き置き給ひけむ、おそろしき好き者なりかしな。いかに、昔は、なかなかに気色(あることも、をかしきこともありける物』とて、うち笑ふ。気色ことになりて、いとやさしげなり。
解説が面倒なので、訳を掲載しておきましょう。保坂弘司『大鏡 全現代語訳』(講談社 1981年1月)の56〜58頁です。
この陽成天皇のご母后、すなわち二条の后宮高子さまは、清和天皇より九つ年上でいらっしゃいました。后が二十七歳の年に、この陽成院をお産み申し上げなされたのです。元慶元年正月に后にお立ちになって、中宮と申されました。時にお年が三十六歳でした。また元慶六年正月七日に皇太后宮にお進みになりましたが、このとき四十一歳でした。
この后がはじめて入内なさった事情というのが、はっきりしません。まだ深窓で育っていらっしゃったときに、在原業平の中将がこっそり高子の后をどこかにお連れしてお隠し申したのを、御兄君たちの基経の大将、国経の大納言らが、まだお年若でいらっしゃったころのことだったようですが、とりかえしにいらっしゃった際、業平の中将が「武蔵野はけふはな焼きそ若草のつまこもれりわれもこもれり」とお詠みになったという話は、この高子の后のことですから、後年になって、高子さまが東宮の女御として藤原氏の氏神大原野神社にご参詣のとき、お供の中にいた業平が、「大原や小塩の山もけふこそは神代のことも思ひいづらめ」という歌を高子の后に詠んで奉ったのです。若い業平との間柄がこんなわけでしたから、世間一般のなかじっかな親たちのお世話では、天皇のご寵愛をうけることにおなりにならなかったのではないかと思われます。それで、あるいは、お親しい従姉妹どうしの仲として、文徳天皇の皇后、染殿の宮明子さまの御方にお出入りしていらっしゃったころのころ、清和天皇がこの高子さまに愛情をおもちになったというようなことでもあろうかと、推測されるのです。私のような、およびもつかぬ下賎な身で、こんな秘事まで申すのは、たいへんおそれ多いことですが、それはみなさんのご存知のことですから、差し支えもありますまい。どんな方だって、近ごろ、『古今集』や『伊勢物語』なんかは、きっと詠んで知っていらっしゃるでしょう。『古今集』や『伊勢物語』に出ている、あの「見ずもあらず見もせぬ人の恋しきはあやなくけふやながめくらさむ」などという歌も、このお二人が親密だったことのものと承っています。こんなことを、ご自分で、後世にまで書いて残しておかれたというのは、おそるべきその道の物好きですね。それにしても、なんとまあ、昔は、今よりはかえって情趣のあることも、おもしろいこともあったものですなあ」といって笑う世継の様子は、一段とすぐれて見えて、こちらが気恥ずかしくなるくらい立派やかです。
太字の箇所が、芥川関連箇所です。『伊勢物語』と比較しておきますと、
・高子の入内した状況が未詳と明言されている
・業平は、高子を取り返される時、「武蔵野は」の歌を詠んだ。
の二点ですね。その他、業平と高子との関係がいろいろと記述されていますが、おいておきましょう。
さて、後者の「武蔵野は」の歌ですが、これは『伊勢物語』第12段に掲載されています。
昔、男ありけり。人の娘を盗みて、武蔵野へ率て行くほどに、盗人なりければ、国の守にからめられにけり。女をば草むらの中に置きて、逃げにけり。道来る人、「この野は盗人あなり」とて、火つけなむとす。女わびて、
武蔵野は今日はな焼きそ若草のつまもこもれりわれもこもれり
とよみけるを聞きて、女をばとりて、ともに率て往にけり。
芥川と比較してみると……全然違うじゃん。 整理しておきましょう。
・逃げた先が違う(芥川ではなく、武蔵野になっている)
・追いかけた人が違う(基経らではなく、「国の守」になっている)
・捕まってる(芥川では捕まっていない)
・しかも女を放置して逃げてる!!(放置なんてとんでもない)
・火をつけられそうになってる(……比べようがない)
・「武蔵野は」の歌がある(これは『大鏡』にはある)
あと、男は逃げてしまっているのに「つまもこもれりわれもこもれり」って何?と、突っ込みたい気分ですね。大鏡のいうとおり、この歌を業平の歌としておきたいところですが、そうすると第12段の物語は崩壊するし……なんなんでしょ、これ。
もうひとつ、『今昔物語』にも似たような話があります。
今昔物語 巻27 在原業平中將の女、鬼にはるる語 第七
今は昔、右近中將在原業平と云ふ人有りけり。極じき世の好色にて、世に有る女の形美しと聞くをば、宮仕人をも人の娘をも見殘す無く、員を尽して見むと思ひけるに、或る人の娘の形・有樣、世に知らず微妙しと聞きけるを、心を尽して極じく假借しけれども、「止事無からむ聟取をせむ」と云ひて、祖共の微妙く傳きければ、業平の中將力無くして有りける程に、何にしてか構へけむ、彼の女を密かに盗み出だしてけり。 其れに、忽ちに將て隠すべき所の無かりければ、思ひ繚ひて、北山科の邊に旧き山庄の荒れて人も住まぬが有りけるに、其の家の内に大きなるあぜ倉有りけり。片戸は倒れてなむ有りける。住みける屋は板敷の板も無くて、立ち寄るべき樣も無かりければ、此の倉の内に畳一枚を具して、此の女を具して將て行きて臥せたりける程に、俄かに雷電霹靂してりければ、中將大刀を抜きて、女をば後の方に押し遣りて、起き居てひらめかしける程に、雷も漸く鳴り止みにければ、夜もふけぬ。 而る間、女、音爲ざりければ、中將恠しんで、見返りて見るに、女の頭の限と、着たりける衣共と許殘りたり。中將奇異しぐ怖しくて、着物をも取り敢へず逃げて去にけり。其れより後なむ、此の倉は人取爲る倉とは知りける。然れば、雷電霹靂には非ずして、倉に住みける鬼のしけるにや有りけむ。然れば、案内知らざらむ所には、努々立ち寄るまじきなり。况や宿せむ事は思ひ懸くべからずとなむ、語り傳へたるとや。
こちらは現代語訳を準備しておりませんので、そのままでお願いします。
相違点を指摘しておきますと……
・女が「或る人の娘」で片付けられており、朝廷関連の記述がない
・女が結婚させられそうになっている
・逃げた場所が北山科になっている
・女を押し込めたあばら屋が、やたら詳しく説明されている
・女の死に方がリアル(頭部と衣服のみが残されている……)
・オチが説教くさい(知らんとこにはちかよるな!! 宿泊なんてとんでもない!!)
共通点は……「男が女を盗んで、失敗した」、これだけですね(笑)。女は取り返されたり、鬼に食い殺されたり……災難です。
芥川、第12段、今昔物語の3つの記事を並べてみると、なんとなく推測されることがありますね。並べてみましょう。
1 男の逃げた先なんて、どうでもいいんじゃないの?
2 女は男のもとから離されたってことは間違いなさそう
3 要は男が女をさらい損なったというだけで、
4 あとは話し手次第でアレンジされてるんじゃないの?
こんなとこですかね。
まぁ、冷静に考えてみると、業平が高子を盗んだということは、在原氏と藤原氏とのガチンコの喧嘩になりますよね。しかも高子は後に清和天皇産んでるほどの人物。その上、探しにきたのが、いくら若手とはいえ、基経。こりゃ、ガチガチですな。(何だかキューバ危機みたい(笑))
そんな緊張感あふれる状況がですね、果たして情報公開されたんですかね?業平の手口はこうで、どこどこに逃走して、何時何分逮捕、お姫様の身柄は確保した、なんて、公開されたとは思えない。そんなことしたら、両家の喧嘩がおさまりつかなくなってしまう。
とすりゃ、隠密裏に片付けたんだろうな、と思いません?若い二人が間違いをおかしたってことで、全部秘密にされてしまう。無かったことにされてしまう。
でも、こうした事件は話題にのぼりやすい。
「業平様が高子さまを盗んだんですって」
「ええ〜、それ、かなりやばくない!?」
「やばいにきまってるでしょ 高子さまは基経さまたちが発見したらしいけどね」
「じゃ、最悪の大喧嘩はないわよね……ところで、どうやって盗んだの?」
「そんなの知る訳ないでしょ!! 下手に聞こうもんなら、とんだとばっちり食らうわよ」
「それもそうね、業平さま、無事かしら……」
「わかんないわよ だって誰も聞けないもん 誰に聞いていいかもわかんないしね」
ま、勝手に想像して書きましたが、話のスタートはこんなもんだったのではないでしょうか?後は、話し手の気分次第……。
さて、芥川はこのへんで終了しましょう。お疲れさまでした。最後に鬼の話をあげておきます。参考までに。
日本三代実録 光孝天皇 《卷五十仁和三年(八八七)八月十七日戊午》
十七日戊午。今夜亥時、或人告。行人云。武徳殿東縁松原西、有美婦人三人、向東歩行。有男在松樹下、容色端麗、出來與一婦人、携手相語。婦人精感、共依樹下。數剋之間、音語不聞。驚恠見之、其婦人手足、折落在地、无其身首。右兵衞右衞門陣宿侍者、聞此語往見、无有其屍。所在之人、忽然消失。時人以爲、鬼物変形、行此屠殺。又明日可修転經之事。仍諸寺衆僧被請、來宿朝堂院東西廊。夜中不覚聞騒動之聲、僧侶競出房外。須臾事静、各問其由、不知因何出房。彼此相恠云。是自然而然也。」是月。宮中及京師、有如此不根之妖語、在人口卅六種、不能委載焉。
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