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やうやう夜も明けゆくに、 見れば率て来し女もなし。足ずりをして泣けども、かひなし。
白玉か何ぞと人の問ひしときつゆと答へて消えなましものを
「やうやう夜も明けゆくに」とは、「やうやう」は普通は「徐々に」「しだいに」と訳されます。有名なところでは、「枕草子」第1段ですね。
「春は曙。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。」
「ベネッセ全訳古語辞典」から訳を引用しておきます。
「春は夜がほのぼのと明けようとするころ(がよい)。しだいに白くなっていく山際の空が、少し明るくなって、紫がかっている雲が細く横になびいているのは(趣深い)。」
これは「しだいに」でよいでしょう。
でも、芥川のここでは「しだいに」よりも「やっとのことで」「どうにか」と訳すのがよいでしょう。前に「はや夜も明けなむと思ひつつゐたりけるに」とありましたね。男は「早く夜が明けてくれ」と願っているわけです。これを受けて、「やっとのことで」とくるわけです。
「やうやう」に「やっとのことで」の訳があるのか?あります。例文を引用しておきます。旺文社「古語辞典」からです。
やうやうとして、穴の口までは出でたれども、え出でずして、たへかたきことかぎりなし(宇治171)((僧は)やっとのことで、穴の口までは出たけれども、(外へは)出ることができないので、苦しいことはこの上ない)
ちなみに、ベネッセの「全訳古語辞典」も同じ文を引用しています。
ここの訳は「やっとのことで夜も明けてゆくのだが」となります。「に」は逆説でとりました。理由は後述します。
「見れば率て来し女もなし」は「已然形+ば」が使われていますね。ここは偶発条件「~すると」で訳します。訳は「見ると、連れてきた女もいない」となります。なぜ「女も」であり、「女が」でないのか?理由はわかりません。もしかすると原文は「率て来し女なし」だったかもしれません。それが時代が下るにつれ、テキストが乱れて「女も」になったのかもしれません。でもあえてテキスト問題を無視して深読みしておくと、(雷が騒がしい夜で何事も無いように男は願っていたはずです。そして夜が明けた。何事も無かったのです。でも無かったのは事件だけではありませんでした。女の姿もなかったのです。)と、こう解釈しておくと、「女も」と「も」が使用されている理由が一応説明できます。正しいかどうかはわかりません。テキストを確認していけばよいのでしょうが、今回はそこまではやりません。
「に」を逆説に解釈した理由ですが、これも男の願いを中心に考えての判断です。男は何事も無いように願っていました。そしてそれはかなえられました。ようやく夜があけたのです。しかし肝腎の願いは果たされませんでした。その願いとは、女を守りきることです。男は女を守ろうとして、あばら屋に女を押し込めたのです。でも守りきれなかった。これがこの場面の状況です。すなわち前半部「やうやう夜も明けゆく」は男の願いがひとつかなえられたことを示します。そして後半部「見れば率て来し女もなし」は男の願いがかなえられなかったことを示します。このように男の願いを中心に整理しなおしてみると、前半と後半とが逆になっていると判断されるので、「に」を逆説と解釈したのです。
「足ずりをして泣けども、かひなし」とは、「かひなし」は「どうしようもない」ということ。最重要単語のひとつです。絶対に覚えておきましょう。「足ずりをして」ですが、一般には「地団駄を踏む」と訳されます。ベネッセ「全訳古語辞典」は「足を大地に踏みつけばたばたさせて、激しい怒りや悔しさを表すこと。じだんだを踏むこと」とあります。
片桐洋一先生は、この通説に疑問を呈しておられます。引用しておきます。
一般には「地団駄を踏む」の意に解されているが疑問がある。万葉集に「立ち走り叫び袖ふりこいまろび足ずりしつつ」(1740)「こいまろび……足ずりし」というように「こいまろぶ」(ころがりまわる)とともに用いられ、名義抄でも「足+色(←一文字です)」という字を「たふる、まろぶ、ひざまづく、あしずり」と読んでいるからである。膝を含めて足を地にすりつけて残念がっているのであろうか。
片桐先生が問題とされているのは、「足ずり」という行為のあり方ですね。「膝を含めて足を地にすりつける」という。でも私がここで問題としたいのは、そういう動作ではなく、男の悔しさが「地団駄を踏む」という表現で、果たして読者に伝わるのか、という点です。
万葉集1740とは、実は浦島太郎の原形ともいうべき記事です。かなり長い作品なので全文引用は省略しますが、「立ち走り叫び袖ふりこいまろび足ずりしつつ」前後を引用しておきます。
この箱を 開きて見てば もとのごと 家はあらむと 玉櫛笥 少し開くに 白雲の 箱より出でて 常世辺に たなびきぬれば 立ち走り 叫び袖振り こいまろび 足ずりしつつ たちまちに 心消失せぬ 若くありし 肌も皺みぬ 黒くありし 髪も白けぬ ゆなゆなは 息さへ絶えて 後つひに 命死にける
ざっとわかれば結構です。 この箇所は、玉手箱をあけて煙をかぶってしまった時の浦島の様子を描いたものです。 注意深くみてみましょう。
まず煙を浴びて浦島がとった行動は、「立ち走」ることでした。煙から逃げようとしての行動でしょう。
次に「叫び袖振り」ですから、煙にまかれて逃げられず、「叫び」、煙を払おうとして「袖振」るわけでしょうね。
次に「こいまろび」(ころげまわり)とあるのは、 たっぷり煙りを浴びた浦島が 弱ってしまい立っていられなくなって、ころげまわったのでしょう。
次に「足ずり」が来ますが、これは保留。
次に「心消失せぬ」ですが、これは「失神」しているということです。
失神したあとは、老化が表面化しはじめ「肌も皺みぬ 黒くありし神も白けぬ」となってしまい、そして最後に「息さへ絶えて後つひに命死にける」ということになってしまう。そして浦島は急速に老化が進み、死んでしまっています。
こうして見ると「立ち走り 叫び袖振り こいまろび 足ずりしつつ」は死ぬ間際に苦しんでいる浦島を表現した文言と解釈されえます。とすれば、「足ずり」は苦しみながら転げ回った末、失神間際で足をバタバタさせている様子、と解釈できますね。その姿は「足をすりあわせ」ているようにも見えたことでしょうし、そもそも「足ずり」とは死ぬほどの苦しみを前提とした動作、ということになります。
これに対して「地団駄を踏む」はどうか。非常に悔しいことは間違いないでしょうが、少なくとも死を前提にした動作には思えない。広辞苑(第三版)には「怒りもがいて、またくやしがって、はげしく地面を踏む」とあり、用例として(浄 反魂香とありますが、浄瑠璃の反魂香なのでしょうか)、「四郎二郎ぢだんだ踏んで、エゝ佞臣ども、むざむざとは死ぬまい」とあります。用例に「死ぬ」とあります。広辞苑のこの記事によれば「地団駄を踏む」にも死のニュアンスがありそうですが、でも死にかけて苦しんでいるのとは違う。死を前にして怒り狂っているわけで、怒りの方が全面にでてくる。
やっぱり、「足ずり」の訳として「地団駄を踏む」は、ずれているんじゃないのか、と思うのです。
では、どう訳せばよいのか。
あらためて場面を確認しておくと、ようやくの思いでお姫様を盗み出し、芥川まで逃げてきたわけです。これ、電車も自動車もなかった当時としては、とんでもない距離なわけです。本当に一晩で、しかもお姫様を連れて移動できるものなのか、大いに疑問ですが、その疑問はともかく、それほどお姫様に寄せる思いは強かったわけです。雨が降り、雷がなり、あばら屋にお姫様を押し込んだあと、自分は武装して入口を守っていた。これもお姫様に寄せる思いが強かったことを示します。
そして、そのお姫様がですよ、突如消えちゃったわけです。しかも鬼に食われちゃったわけです。これはたまらない。あれほど苦労して盗み出したお姫様を……。その苦しみは「地団駄を踏んだ」なんてものではなかったでしょう。それこそ、死ぬほど後悔し苦しんだことでしょう。 その苦しみの表現として「足ずり」とでてきているのですから、意訳ですが「横たわって身もだえし、死ぬほど苦しみながら(泣いたけれど)」とでもすべきではないでしょうか?いかがなものでしょうかね。
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