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今日の国語

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2012立教大学文学部 課題文の分析

 今日は問題に入らず、課題文の分析を行いましょう。
 現代文特有の問題として、課題文を先に読むか、問題を先に読むか、というのがあります。
 どうでもいいことなんですが、ときどき質問されます。
 
 私は先に課題文を大雑把に読み、それから問題にとりかかります。
 「課題文が先」派です。
 これは別にこだわってのことではありません。いつの間にか、そうなっていただけです。
 
 では「大雑把」にとはどういうことか?
 それは「対比をさがす」ということです。
 
 私は最初の一読のとき、対比を探して全体構造を単純にしてしまうようにしています。
 内容については、多少わからなくてもいい、と思っています。
 細かいところは、語句のあり方に多少注意することはあっても、基本的に「ま、いいか」とパスします。
 それで一応は大丈夫です。
 なぜ大丈夫なのか。
 対比の全体構造が判明すると同時に、私は課題文の内容を「大雑把に」理解しているからです。
 全体構造の判明は、理解につながります。
 具体的に見ていきましょう。
 
対比の発見に集中                             
 
 課題文を確認していきましょう。
 今日は問題は扱いません。 
 
 だいたい僕は世の中で素樸というものがいちばんいいものだと思っている。こいつはいちばん美しくていちばん立派だ。こいつは僕を感動させる。こいつさえ捕まえれば――と、そう僕は年中考えている。
 ところで、僕は今ここでその素樸についてお喋りしようというのだが、考えてみるとてれ臭くないわけではない。なぜといって、素樸はそれについて語ることのできないものだから。それについて語ることは素樸でないだろうから。それを敢えてしようとするのだから。第一、素樸が好きだとか何だとかいってみても、それは理窟はいろいろとつけられようけれど、個人の好みや、生理的関係にもよるのだろうし、たとえそれを僕が芸術上の信条としているとしても、結局それは僕のひとり合点のことで、ひとり合点のことなら他人に押しつけないがいいのだから。
 何でこんなことを一々断わるかというと、人の言うことを次ぎから次ぎへと勘違いして歩く人があるからだ。僕は、これもひとり合点なのだが、大切なことなら誤解されてもかまわないと思っている。大切なことは誰にでも理解されるというわけに行かないもので、それでもその大切なことはそれをまともに聞く耳をいつでも持っている。第一、誤解されない、捩(ね)じ曲げられない、あくどく喰ってかかられないような大切なことなぞはいくらもありはしないのだ。ただそれほど大切でないことは誤解されることを用心しなければならない。もしそういう誤解が生じてそれを解かなければならないとしたら、その仕事はなにしろ馬鹿々々しいに違いないから。それほどいいその素樸というものはそれならどんなものか。それが実は、素樸などというものを好きになったお蔭で僕に説明ができないのだ。僕は僕の思いついた話や譬(たと)え話をして、僕が考えている素樸に見当をつけてもらうことにする。
 
 ここまでで対比は登場していません。
 何やらよくわかりませんが、「素朴」について、述べているようです。
 
 僕はファーブルやポアンカレーを素人考えで大そう好いているのだが、それは彼らの仕事の中身がつまっているからだ。僕は素人考えで好いているので、科学のことは何も知らない。僕の眼に映ったようなものは彼らの科学者としての仕事のほんの些細(ささい)な一部に過ぎないのだろう。だがそれならば、全体の仕事のほんの一部が、しかも科学者のことをまるで知らない一人の素人をそれほど感動させるとすれば、それは彼らの仕事の中身が全くひどくつまっているからだということになりはしなかろうか。例えば『昆虫記』の中で著者は綿々として話しかける。彼の中には天国ほども豊富な材料がある。天体の運行ほども正確な実験や観察の結果がある。そして彼自身には、それを語ろうとする大きな熱意だけがあって他意はない。彼は彼の話せるだけを話す。そしてそれっきりだ。彼は彼に対する愛憎を自然のように人まかせにしている。彼は行くところまで行き――その途中彼はただ行くことだけをする――そしてそこで倒れる。その仕事の仕振りは、いわばそのまま古典的であるほどにも水々しく、人をびっくりさせるほどにも素直である。
 
 ファーブルやポアンカレーが好き、そしてその理由について述べられています。
 でも、それだけです。
 
 ところが僕はいつかポアンカレーの『科学者と詩人』を読んだ。そしてそんな好きなポアンカレーがちっともおもしろくなかった。その本は何でも、亡くなったアカデミーの会員たちについて著者がいろいろな会合の席でした演説や雑誌に書いたものを集めて出来ていた。それらは、その物故した人たちの残した業績がどんなに大きかったか、それらの人たちが亡くなったいま我々はどんな大きな損失を感じなければならないかを主として説いていた。それらのいわば非常に優れた哀悼の言葉は、ポアンカレーの場合ある程度まで止むをえなかったのであろうが、亡くなった人々を褒めることに主眼をおいていた。そして何よりも先に当のポアンカレーは、アカデミーの最高の椅子に坐っている人であり、老人であり、そして彼の今までに打ち立ててきた学問上の業績は、彼が今その功績をたたえているブッコした数々の科学者たちのそれに比べて優るとも劣らないのである。こういうポアンカレーにとって、亡くなった人たちの業績を褒めたたえることは困難な仕事でない。それを学問上の(注3)ポレーミクに従うのに比べるなら、甚しく少なく自分を食いちぎる仕事である。学問上のポレーミクが、論敵の攻撃よりも自分自身の攻撃に懸っているのに反し、論敵の手で見事に暴露された自分自身の無力をどこまで逆に切り捌いて行くかに懸っているのに反し、甚しく余裕のある仕事である。ポレーミクにあるものは素樸であり、賞讃にあるものは優雅である。僕はポアンカレーのこの本を読んで人を褒めるということは何とむずかしいことかと感じ、俺は人をポアンカレーのように褒めることをしまいと考えた。
 
 好きだったポアンカレーがちっとも面白くない。
 このへんから、対比が始まりそうですね。
 なぜなら、「好き」と「好きではない(面白くない)」は対比だからです。
 
 もちろん僕はポアンカレーのように褒めることを問題にしているのであって一般に褒めることを問題にしているのではない。(注4)スウェルドロフが死んだ時に書いた(注5)ソスノウスキーの文章などはポアンカレーの哀悼の言葉とは性質が違う。ソスノウスキーの場合それは文字通りに哀悼の言葉であり、それの持っている嘆きの調子が人を打つほどに素樸に現われている。それは仲間の死を悲しんでいるのであって死んだ彼にどの椅子を許そうかと考えているのではない。こういうせっぱつまった状態は中身がつまっている。中身のつまっていないせっぱつまった状態なんてものはどこにもない。そして中身がつまっているということ、せっぱつまっているということは、その仕事に当人が身を打ち込んでいること、全身で歩いていることにほかならない。僕の考えている素樸というのはそういう態度を指している。
 
 出ました、対比です(わかりますか?)。
 ポアンカレーとソスノウスキーの対比。
 ここはちょっと注意して読まなければなりません。
 といっても、対応関係だけ明確にすればいいのです。
 
共通点=どちらも故人のことを書く
・ポアンカレー……面白くない……(下記の反対)
・ソスノウスキー…面白い…………文字通り哀悼の言葉、素朴、中味がつまっている、身を打ち込んでいる
 
 ポアンカレーの方は手を抜きました。面倒くさいからです。
 この段落の前段落でポアンカレーについて、いろいろ述べてはいますが、ソスノウスキーと表現上、対応していません。
 これを対応させながら考えるのは、時間をくいます。
 だから、必要(=問題が要求する)だったら考えますし、必要じゃなかったらそのままです。
 
 そこでそこからして僕は若干キテレツな次ぎのような考えを持っている。それは芸術家とか詩人とかいうものは、彼が芸術家とか詩人とかいうものからどこまで自分を切り裂いて行くかというところにその価値が懸ってくる、ということなのだ。制作をどこまで叩き上げるかということは、生活をどこまで叩き上げるかということを基礎にしない限りいくらやってみても堕落だと思うのだ。作家が生活を叩き上げるということは制作を叩き上げることによってしかなされないということが真理であるにもかかわらずだ。
 
 この段落では、対比の中でとりあげた「身を打ち込んでいる」を拡大しています。
 すなわち、「どこまで自分を切り裂いて行くか」です。
 そして、そのベースに「生活をどこまで叩き上げるか」ということがある、と述べています。
 
 
 (注6)ツルゲーネフと(注7)ドストエフスキーとを比べてみると、僕はドストエフスキーの方が生活を叩き上げることを知っていたと思う。僕の考えによればツルゲーネフは到底ドストエフスキーに及び難い。ドストエフスキーは自分の肉体で物語をこさえた。ツルゲーネフは小説をこさえるために生活した。ドストエフスキーの作にはどこにもドストエフスキーの血が湛(たた)えられている。ツルゲーネフのには、ツルゲーネフの何かは湛えられていようが血は湛えられていない。ツルゲーネフならどこからひっくり返して読んでもいいのが、ドストエフスキーではそう行かない。ドストエフスキーはほかのものに手を出さなかったがツルゲーネフはあれやこれやと手を出した。ツルゲーネフには芸術だけが問題であって、芸術というものがそれあっての物種(ものだね)であるところの肝腎の人間生活はあまり問題でなかった。だから彼は彼の以前の制作から脱却して次ぎの制作へ行った。しかし以前の制作を生んだ彼の以前の生活から手を切ることをしなかった。だから彼の制作は次々と現われても、それを裏づける彼の生活が発展したということにならない。ガラス窓のガラスの色を次ぎから次ぎへと取り換えたに過ぎない。そいつは溜り水だ。そいつの打ち方は臭い。じきにたまらなくなる。で、そうなれば、作家がいくら大作を次々に書いたところでその作家の価値が高まったとはいえなかろうと思うのだ。そういうのではつまり、作家が制作に身を打ち込むということが本当に実現されないと思うのだ。制作に生活を引きずられるのでなしに、生活を発展させるためにどこまで制作を削り落すかが大切だと考えるのだ。
 
 再び対比です。今度はツルゲーネフとドストエフスキー、ロシア文学の超大物です。
 でもそれはどうでもいいことです。何か知識を持っていたとしても、決して使ってはいけません。
 
 
 「僕はドストエフスキーの方が生活を叩き上げることを知っていたと思う」の一言で、ドストエフスキーの方がソスノウスキーの部類に入ることがわかります。
 あとは流して読みます。
 なぜならドストエフスキーは「文字通り哀悼の言葉、素朴、中味がつまっている、身を打ち込んでいる」+「生活をどこまで叩き上げるか」の側のはずですし、ツルゲーネフはその逆でなければならないからです。
 そして実際、その通りに文が展開されています。
 
 対比構造とれたならば、あとはそこから逸脱するものがないか、確認するだけでよいのです。
 ここでは「ドストエフスキーはソスノウスキー型」ということがわかれば、十分です。
 
 
 そこからして僕はまた、いい作家というものは新しい一つの仕事にそれまでのすべての仕事を打ち込むものだと考えている。最後の作の中へはその一つ手前までのいっさいをぶち込む。すべての経験、すべてのすでに取り扱われた対象、既に取り扱われた取扱い方、すべての大根(おおね)から小手先までの技術、そういうものいっさいをぶち込む。僕の考えによれば、このすべての瞬間にいっさいを叩き込むという態度こそ最も素樸な態度なのだ。
 人がこういう状態でいる時は誰もわき見したりつまらぬ気がねをしたりはしないだろう。その瞬間にやった自分の行為に対して註釈したり弁解したりしないだろう。そんなことはできないし、そんなことは吝(けち)臭く思われるだろう。で、僕は、作家なら作家は、彼の人間的価値を問うためには彼の制作上の価値だけを取り出して見せる覚悟を持つ必要があろうと考える。後世の全集編纂者や本屋の類が(注8)断簡零墨を蒐集するのはいいことだろうが、万一作家がそのことを全集編纂者や本屋の手代に期待して死ぬとあれば、彼は堕獄するしかあるまいと思うのだ。
 
 すごく情熱的に書いていますが、冷めた眼で見れば、ただの同義反復。これといって目新しい内容はありません。
 
 
 ここで僕は仕事というものについての僕の考えを書きつけることにする。おそらくそれもこの素樸ということに関係してくるだろうから。
 僕のひとり考えでは、仕事の価値はそれがどこまでそれを取り囲む人間生活の中に生き返るかにある。車輪の発明者を誰も記憶していない。だが車輪を使わない人間が一人もいないくらいに彼を記憶している。誰も車輪の発明者に感謝していない。しかし人間の残らずが車輪を使用しているということよりも立派な感謝状は一枚もないに違いない。我々はしばしば、歴史一般の中に掻き消されている力学の歴史、医学の歴史等々を忘れている。同様に芸術の歴史の中にしばしば掻き消されている芸術に関する学問の歴史を忘れている。また例えば演劇の歴史にしても、その中に撚り込められて素人には見えない演出の歴史、建築の歴史、照明の歴史等々を忘れている。忘れているどころか僕なぞはだいたい少しも知らない。そしてその無知からして、我々自身の文字となって残るような仕事だけが仕事だと思い込み、それがそれとして人の眼に映るために千万無量のお蔭を蒙っている眼に見えない仕事、瞬間に消えてゆくような仕事を仕事だとも思わないようになる。それは間違っており、無知であるために不遜であるところのものであり、仕事の価値を真実に知っており、それゆえこういう輩からは永久に顧みられないような仕事を一生の仕事としてコツコツと築いてゆくような賢い人たちからは憐まれるところのものであろう。こういう本当の賢さを持った人たちから笑われ憐まれることのないような考え方こそ、僕は、我々の持つべき仕事に対する素樸な考え方だと考えている。
 
 話が「仕事」に移っています。
 でもやはり対比は使用されています。「本当の賢さを持った人たち」と、そうではない人たち、です。
 ここは対比と捉えなくてもよいのですが、対比と捉えた方が楽ですし、対比の練習でもありますので、対比と捉えておきます。
 
・賢い人……車輪の発明など、感謝状なし、仕事の価値を知っている、(下記の逆)
・(そうでない人)……文字となって残る仕事だけが仕事と思っている、(感謝状あり?)
 
 いまひとつ美しくありませんが、自分で中味がわかれば十分なので、これで十分とします。
 必要なら、問題を解くときに見直せばいいのです。
 
 さて、これで課題文分析は終了です。
 あとはこれをまとめてやればいいだけです。
 まとめ方は簡単です。対比の片方(中心になっている方)にデータを集めてしまえばいいだけです。
 文にすると難しそうですが、実際は簡単です。
 例えば、こんな具合です。キーワードをあげてみます。
 
 素朴、中味がつまっている、身を打ち込んでいる、生活をどこまで叩き上げるか、車輪の発明など、感謝状なし、仕事の価値を知っている、文字となって残る仕事だけが仕事とは思っていない
 
 あとは繋げるだけ。かなりアバウトです。キーワード全部を使うとも限りません。
 まずは、まとめる方が先です。
 
 →身を打ち込んだ仕事で、中味が詰まっている仕事を行うには、生活をどこまで叩き上げるかが重要である。筆者はこうした態度をとる人を「賢い人」と称し、仕事の価値を知っている人とする。
 
 「素朴」を入れ忘れました。さすがに「素朴」は入れた方がいいですね。
 
 →身を打ち込んだ仕事で、中味が詰まっている仕事を行うには、生活をどこまで叩き上げるかが重要である。筆者はこうした態度をとる人を「賢い人」と称し、仕事の価値を知っている人とする。また、こうした人たちの仕事に対する態度を、筆者は「素朴」と称している。
 
 追加しておきました。やり方はいろいろあると思います。
 
 
この問題を選んだ理由                           
 
 ここまで来ると、私がこの問題を選んだ理由もご理解いただけたかと思います。
 この問題は対比がわかりやすいのです。
 対比の練習にはぴったりです。
 
 今日はこれで終了します。
 次に問題に入りますが、対比がどのように問題に用いられているか、注意して見ておいてください。
 (もちろん、すべての問題が対比によって成立しているわけではありませんが)
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