なぜか問4が欠落していました
多分、私のミスではないかと思います
不慣れなためとはいえ、ご迷惑をおかけしました
急ぎ、再録します
以下再録
昨日は結構もりだくさんでした。きちんと消化できましたか?
今日の内容に入る前に、まずこれまでの対比の確認をしておきましょう。
人間の眼……絵画・写真……剰余の眼差し○
カメラのレンズ……映画(……剰余の眼差し×)
並べてしまえば、これだけのことです。
結構単純なんですが、本文は細かい説明が展開されていますので、なかなか気がつきません。
この構造を頭に入れた上で、何度でも課題文を読み返してください。
そして、文のリズムを体で感じ取ってください。
究極的にいえば、文のリズムは頭で考えてもわかりません。体で感じとるものなんです。
文のリズムを体で感じ取ることができるようになれば、私の方法論は不要になります。
逆説的ですが、そんなもんです。
考えなくても感じ取れるようになるまでは、ひとつひとつ頭を使うしかありません。
その積み重ねによって、頭を使わずにリズムを汲み取れるようになる。
そうするしかないんです。
悲しいけど、こんなもんなんです。
へこんでいても、しょうがないですね。今日の内容に入ります。
問題のすれ違い
問4は、問題の設定自体にトリックがあります。
このトリックに気がつかなければ、自分が何をやっているのか、何を求めているのか、わからなくなります。
問4 傍線部C「映画が映画であるのは、この速度を産み出す時間に依存している」とあるが、筆者は「映画」が「時間に依存している」ことでどのような結果が生じたと考えているか。
傍線部を確認します。
「映画が映画であるのは、この速度を産み出す時間に依存している」
要するに、映画が映画であるのは、「時間」があるからだ、ということですね。
逆に言えば、絵画や写真には「時間」がない。
これは何となくイメージできるのではないでしょうか。映画には始まりがあり、終わりがある。ということは、その間に時間が存在するということですね。もっと噛み砕いて言えば、映画を見るのには時間が必要ということです。
でも絵画や写真には始まりもなければ、終わりもない。ということは、その間に時間は存在しないということです。もっと噛み砕いて言えば、絵画や写真は5秒でパスしても、24時間じっと見ていても問題はない、ということです。映画ではこうはいかない。絵画や写真を見る時には、時間の制限はないわけで、その意味で時間は存在しない、といえるわけです。
こうした解釈は、本当はやるべきではないのかもしれませんが(自分の言葉で説明するのは無根拠になりがちで、その分、危険でもあるからです)、大体はこんなところでしょう。これで問題が解けそうですね。
でも、そうじゃないんです。
求められていることは、そういうことではないんです。
求められていることは何か。問題文を引用します。
筆者は「映画」が「時間に依存している」ことでどのような結果が生じたと考えているか。
そう、映画が時間に依存していることで、「どのような結果が生じたか」ということなんです。
「映画が時間に依存している」とは「どういうことか」ではないんです。
ここを読み違えると、話はずいぶんややこしい方向へと進んでいきます。
「どのような結果が生じたか」、と「どういうことか」の違いですからね。
全然違います。
全く、油断も隙もあったもんじゃありません。
微妙ないいかえ(同義反復)
では、「求められていること」を意識しながら、課題文の続きを読んでいきましょう。
だが映画はそうした眼差しの無用さ、無償性を許そうとはせず、あくまで特定の視点を強要し、さらにわれわれがそれに見入っている時間に至るまできびしく制限しようとする、独占的なメディアと言うべきではなかっただろうか。
かつて映画は時間の芸術という美しい名前で呼ばれた時代があった。しかもそれは時間とスピードに魅せられ、幻惑された二十世紀を象徴する言葉でもあっただろう。映画はそのフィルムのひと齣、ひと齣が、一秒間に二十四齣という眼にはとまらぬ速度で動くことによって、網膜に残像がしるしづけられ、われわれはそれを連続する映像として見るのである。そのかぎりでは映像のひと齣、ひと齣に加えられた速度、時間を停止してしまえば、映し出されているものは一枚の写真とかわらず、絵のタブローと同様にわれわれの眼が自由にそれを見ることができるはずである。
従ってC映画が映画であるのは、この速度を産み出す時間に依存しているのであり、それはフィルムのひと齣、ひと齣の動きのみならず、一時間、あるいは二時間と連続して映写される時間の流れを誰もが疑わず、停止しようとはしなかったからであった。そして息つく間もないスピードの表現であることが、わずか二時間たらずのあいだに人間の一生を描くことができた理由であり、神による天地創造の神話から一億光年の彼方の宇宙の物語まで映画は語りえたのである。
最初の「だが映画は……」の段落は、絵画・写真と比較してのことです。修飾語が多いので適当に省略して言えば、「映画は独占的なメディアというべきではなかっただろうか」といってるだけです。だって「剰余の眼」の一点に注ぎ込ませるし、時間の制約もするからです。これを一文でいえば、課題文のようになるんですね。
次の段落では、映画と時間との関係を指摘します。時間をとめてしまえば、映画は一枚のタブローにすぎない。そりゃそうでしょう。時間をとめたら、そのシーンで画像がとまっちゃうでしょうからね。写真と何も変わらない。
このへんまでは「時間に依存する」ことについて、くどくどと説明しているだけです。
「時間に依存している結果」はまだ登場しません。
山場は次の段落です。
傍線を含む一文を確認します。
従ってC映画が映画であるのは、この速度を産み出す時間に依存しているのであり、それはフィルムのひと齣、ひと齣の動きのみならず、一時間、あるいは二時間と連続して映写される時間の流れを誰もが疑わず、停止しようとはしなかったからであった。
全体は2つの文により構成されています。
・従ってC映画が映画であるのは、この速度を産み出す時間に依存しているのであり、
・それはフィルムのひと齣、ひと齣の動きのみならず、一時間、あるいは二時間と連続して映写される時間の流れを誰もが疑わず、停止しようとはしなかったからであった。
前半はもういいでしょう。映画が映画であるのは、時間に依存しているから、ということです。前述のとおり、絵画・写真との対比で読むのがコツです。
後半は、「それは」と代名詞が使われているので、やや読みにくくなっていますが、「それ」の内容は、もちろん「映画が映画である(こと)」です。映画が映画であるのは、誰も時間を止めなかったからだ、というわけです。
時間をとめたら、ただの写真になっちゃいますからね。
今回は、傍線部を含む一文を確認しても、何もありませんでした。要するに、ただの繰り返しです。
重要なのは次です。
そして息つく間もないスピードの表現であることが、わずか二時間たらずのあいだに人間の一生を描くことができた理由であり、神による天地創造の神話から一億光年の彼方の宇宙の物語まで映画は語りえたのである。
この問題でもっとも重要なのはここです。
「息つく間もないスピードの表現であることが」の意味がわかりますか?
「息つく間もないスピードの表現である」とは「映画が」息つく間もないスピードの表現である、ということで、これは「映画は時間に依存している」ということの別表現(いいかえ、同義反復)なんです。
今回は、ここがポイントになります。
すなわち、映画は時間に依存しているから、「わずか二時間たらずのあいだに人間の一生を描くことができた」のであり、「神による天地創造の神話から一億光年の彼方の宇宙の物語まで映画は語りえた」のです。
今回は、これで解答はでました。つまり、映画が時間に依存している結果、
・わずか二時間たらずのあいだに人間の一生を描くことができた
・神による天地創造の神話から一億光年の彼方の宇宙の物語まで映画は語りえた
のです。
主文中心に選択肢を確かめる
仕上げに選択肢を確認しておきましょう。
①映画は、人間の一生をわずか二時間たらずで映し出すことを可能にしたが、観客をひきつける動く映像の迫真性によって、国家権力やコマーシャリズムに利用されてしまうという結果になった。
②映画は、一秒間に二十四齣というフィルムの映写速度で観客の眼差しを支配し、神話などの虚構まで表現することを可能にしたが、そうした錯覚によるまやかしは見ることの死をもたらした。
③映画は、限られた時間のなかで壮大な時空間を描き出すようなことを可能にしたが、映画に見入っている時間をきびしく制限しようとすることで、観客の眼差しを抑圧してしまうことになった。
④映画は、息つく間もないスピード感に満ちた物語や広大な宇宙の物語を表現することをも可能にしtが、ゆるやかに移ろいゆく時間を、反復とずれによって表現することが不可能になった。
⑤映画は、画像が連続する新しい芸術として発展したが、ひとたびその速度に慣らされてしまった観客には、絵画や写真のように静止した画像と内面でゆっくりと対話することが困難になった。
今回は趣向をかえて、(大雑把にですが)主文だけをとりだしてみます。
①映画は、国家権力やコマーシャリズムに利用されてしまうという結果になった。
②映画は、そうした錯覚によるまやかしは見ることの死をもたらした。
③映画は、観客の眼差しを抑圧してしまうことになった。
④映画は、ゆるやかに移ろいゆく時間を、反復とずれによって表現することが不可能になった。
⑤観客には、絵画や写真のように静止した画像と内面でゆっくりと対話することが困難になった。
……正解は③しかありませんよね。
一応、確認していきましょう。
①の国家権力やコマーシャリズムって、何のことなんでしょう?後で登場しますが、ここでは無関係です。
②も「錯覚のまやかし」って何でしょうか?関係ないですね。
④は「時間を……表現する」って何?時間を表現する?何のことでしょう?
⑤は観客は関係ない、とは言えませんが(「見る」のは観客ですから)、でも内面との対話?何のことでしょう?
いずれも、「何のこと?」という内容ばかりですね。
今日の内容は、
①問題はよく読まないと、引用文と求められている内容とが食い違っている時がある(要注意)
②選択肢は主文中心に攻めるのが効果的
ただし、②については、いつもそうだとは限りません。
方法の一つとして理解しておいてください。
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