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今日の国語

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平成17年本試評論 問5

 ブログのタイトルを問題No.に対応させたほうがラクだということに、今頃気がつきました……。
 早速、そうすることにします。
 
 前回、主文だけを抜き出して、それだけで判断することをやりましたが、本当にそれでいいのか?という疑問もあることでしょう。
 返答は「基本的にOK」です。
 選択肢のありかたは「言い訳」のあり方みたいなもの(というか、「言い訳」そのもの)なんです。
 言い訳の面白いところは、従文がやたら長くて、ややこしくて、理解するのが面倒なところですね。そのくせ、主文にくると、途端に意気地がなくなる。
 
 「だってね、あれがこうして、これがこうなって、だからそれがそうなって、だから僕はこれをこうして、こうなってああなってそうなって、で、……となっちゃったんです……」
 
 主文は最後の「……となっちゃたんです……」の部分です。
 彼は言うべきだけど言いづらいことを言えなくて、ああだこうだと、主文の前にどうでもいいことを並べ立てているだけなんです。
 私たちは、こういう状況でも、彼のいうことを基本的にはしっかり認識できます。
 
 「え!?、ほんとにそうなっちゃったの!?」
 
 「ほんとにそうなっちゃったの」は「……となっちゃったんです……」に対応する返答です。
 これは結果的に、主文が何か、聞き手は十分わかっている、ということです。
 この現象を選択肢に応用したのが、「主文を比べる」というテクニックです。
 これだけで①〜⑤の選択肢中、4つが落ちるというのは珍しいのですが。
   ※主文だけでは結論が出ない場合は、そこではじめて従文を確認します。
 
 さて本論に入ります。
 今日は問5です。
 
 
書名から内容へ                              
 
 今更ですが、この課題文の出典は吉田喜重「小津安二郎の反映画」です。
 
 〔絵画・写真ー映画〕の対比を既に発見している人は、このタイトルを見れば、「この本は小津安二郎の映画は、絵画的、写真的なものであって、剰余の視線を許す映画なんだろうな(具体的にはわかんないけど)」と思うのではないでしょうか。
 
 正解です。
 私はこの本を読んでいませんので、本全体でどうなっているのかはわかりませんが、少なくとも課題文に引用しているレベルでは正解といってさしつかえないと思います。
 
 では、今日の本文を引用しておきましょう。
 
 しかしながら映画を見るという行為は、一瞬たりとも休むことのない時間の速度にとらわれ、その奴隷と化することでもあった。静止して動くことのない絵画や写真の場合は、さまざまな視点から自由に眺めながら、みずからの内面でゆっくりと対話することもできるだろう。だが映画は一方通行的に早い速度で流れる時間に圧倒されて、ついにはひとつの意味しか見出せない危険な表現であり、二十世紀の国家権力やコマーシャリズムが濫用し、悪用したのも、こうした映画における見ることの死であったのである。
 
 まずはここまで。
 
 
難解ないいまわしと対比                          
 
 この段落を見てみましょう。
 
 最初に「しかしながら映画を見るという行為は、一瞬たりとも休むことのない時間の速度にとらわれ、その奴隷と化することでもあった。」とあります。この文、難解ですね。「映画を見るという行為」はわかります。そのままですね。
 でも「一瞬たりとも休むことのない時間の速度にとらわれ」とは何でしょう?時間の速度にとらわれる?
 「その奴隷と化することでもあった」?
 主語を合わせると、「映画を見るという行為は、その奴隷と化することでもあった」となりますが、これでもわからない。
 
 次の「静止して動くことのない絵画や写真の場合は、さまざまな視点から自由に眺めながら、みずからの内面でゆっくりと対話することもできるだろう」は、わかりますよね。絵画や写真の場合は、見て感じて考えて、考えてそして見る、ということができますから。
 
 ということは、絵画・写真は映画と対比ですから、「静止して……」の文の逆の意味が、映画に相当するはずです。
 すなわち、
 
 動いて止まることのない映画の場合は、さまざまな視点から自由に眺めながら、みずからの内面でゆっくりと対話することなんてできやしない。
 
 というのが、「しかしながら……」の意味なのです。
 そして同義反復が来ます。
 
 だが映画は一方通行的に早い速度で流れる時間に圧倒されて、ついにはひとつの意味しか見出せない危険な表現であり、
 
 おわかりですか?
 
 映画は「一方通行的に早い速度で流れる時間に圧倒されて」「さまざまな視点から自由に眺めながら、みずからの内面でゆっくりと対話することなんてできやしない」から「ついにはひとつの意味しか見出せない危険な表現であ」る、と言っているんです。
 だから結果として、「その奴隷と化すること」となり、具体的には「二十世紀の国家権力やコマーシャリズムが濫用し、悪用」することとなったんです。単純化していえば、考えることができなくて、ついつい従ってしまう、ということです。
 
 この段落は表現が難解なため、敬遠しがちかもしれません。
 でもターゲットを絞り(この場合は「映画」)、対比を利用しながら内容を単純化(話題を「映画」に統一)すれば、案外わかりやすくなるものなのです。
 
 さて、その対比ですが、ここでもうひとつ情報が加わりました(気がつきましたか?)。
 
  絵画・写真……内面でゆっくり対話可能
  映画……内面でゆっくり対話、不可能(←直接に言及されていない 対比によって判断する)

新しい情報を意識しながら、次にいきましょう。
 
 
具体例としての「小津安二郎」                       
 
 そもそも課題文は「小津安二郎」についてのはずでした(書名より)。
 ここにきてようやく本題の登場です。
 
 しかし、実はもういうべきことはいってしまったはずなんです。
 なぜなら〔絵画・写真ー映画〕の対比は十分に論じられてきたから。
 あとは小津安二郎を、この対比の枠の中にいれてしまえば、おしまいのはずです。
 
 いうなれば、小津安二郎は具体例ですね。
 
 それにしても小津さんは新たなメディアとしての映画が持ちあわせた特権、その魅力をことごとく否定する。まさしく反映画の人であったと言うほかはない。カメラのレンズをとおして現実を切り取り、それを映像化することが世界の秩序を乱すと懸念する小津さんであれば、われわれの無用な、無償の眼差しを許そうとしない映画の独占的な支配を受け入れるはずもなかった。ましてや反復とずれによって気づかぬうちに移ろいゆくのが小津さんが感じる時間とその流れであり、二時間たらずの映画の上映で人間の一生が語りつくされたり、一億光年の宇宙の果てまで旅するような時間の超スピードぶりは、われわれの眼を欺くまやかしでしかなかった。
 
 最初の「それにしても小津さんは〜ほかはない」というのは、小津さんは「絵画・写真」の側の人だった、と指摘しているにすぎません。「カメラのレンズ〜」は、これまで述べてきた映画の弱点(悪口?)を羅列しているだけです。とりたてて目新しいものはありません。
 
 
 だが小津さんは映画表現のありようにまさしく反抗しながら、それにもかかわらず限りなく映画を愛するという矛盾をみごとに生きぬいた人でもあった。そんためには映画のまやかしと戯れつづけ、共棲しまうといった、あの小津さんらしい諧謔ぶりがおのずから求められたのである。
 
 小津さんは映画の側の人でありながら、絵画・写真の人であり、絵画・写真の人でありながら、映画側の人だった、と言っているだけです。
 これは既に予想されていたことですね。特に注意するほどのことでもありません。
 
 
 トーキー映画である『一人息子』にしても、科白や音響効果によって映画がいっそう表現力を高め、迫真性が加わることを嫌い、あえて意味が曖昧なままに浮遊する映像を、トーキー映画への戯れとして小津さんは試みたに違いない。事実、場末のゴミ処理場を望む野原に座って語りあう母親と息子のシーンは、たしかに科白は聴こえながら、対話しあっているとは思えないようにモンタージュされており、その視線もまたたがいに宙に漂い、すれ違うようにしてあてもなく拡散していく。従って母親と息子とが親しく語りあうことがドラマでありながら、画面に映し出されている俳優の姿かたち、人間としての存在のありようのほうが否応なく、よりくっきりと浮き彫りにされ、映画の筋立てとはかかわりなく、われわれの無用の眼差しによってそれは見られてしまうのである。 
 
 ただの具体例です。
 最後のほうに絵画・写真側の用語「無用の眼差し」が用いられているのが、面白いですね。
 
 
 おそらく小津さんがひそかに心に描いていたのは、D「見せる」ことよりも、われわれの無用、無償の眼差しによって「見られる」映像を試みることにあったのではないだろうか。映画にたずさわる人間であれば誰しもが、その表現の一方通行的である優位さを過信して、観客に映像を「見せる」ことに腐心するのだろうが、小津さんにかぎっては「見せる」ことよりも、観客によって「見られる」、あるいは「見返される」映像を実現するために心を砕いたのである。
 
 ようやく問題の箇所にたどり着きました。
 では、問題に入っていきましょう。
 
問5 傍線部「「見せる」ことよりも、われわれの無用、無償の眼差しによって「見られる」映像を試みることにあった」とあるが、どういうことか。
 
 小津さんは絵画・写真側にたった映画を作ることを試みていた、ということですね。
 「見られる」となっていますが、「見る」のは観客のほうですから、映像は「見られる」と表現されます。
 
 
①スピード感を持たせた編集によって観客に一方通行的に映像を見せるのではなく、ゆるやかなテンポを持たせた編集によって、観客が余裕を持って画面の細部まで見ることができるような映像を試みること。
 
②時間の流れに従属させることで観客の視線を限定するような映像を見せるのではなく、観客それぞれの自由な見方に任せることによって、単一の意味で受けとられてしまわないような映像を試みること。
 
③特定の視点から撮影することでそれ以外の空間が存在しないかのような映像を見せるのではなく、人間の眼がさまざまな空間を自由に見ることができるのと同様に、多様な角度からの映像を試みること。
 
④作り手の表現意図の伝達を目的としてすべての観客が同じ意味に到達するような映像を見せるのではなく、さまざまな意味合いを含んだ複雑な内容によって、個々の観客が自由に解釈できる映像を試みること。
 
⑤フィルムのひと齣ひと齣を連続して映写することで観客の視線をくぎ付けにする映像を見せるのではなく、画面に映し出されていない場所やその舞台裏についても、観客が想像力を発揮できる映像を試みること。
 
 主文だけに変換しましょう(大雑把にやっています)。
 
①観客が余裕を持って画面の細部まで見ることができるような映像を試みること。
②単一の意味で受けとられてしまわないような映像を試みること。
③多様な角度からの映像を試みること。
④個々の観客が自由に解釈できる映像を試みること。
⑤観客が想像力を発揮できる映像を試みること。
 
 これだけでも、①③は落ちますね。
 ①は画面の細部を見せればいいというものでもないでしょ、ということで落ちます。
 ③は「多様な角度」の意味がわかりません。
 
 この選択肢は「……ではなく、……だ」という具合に、上に否定語のフレーズが置かれています。
 主張は否定形ではなされませんから、ここを保留しながら、残りをもう一度だしてみます。
 
②観客それぞれの自由な見方に任せることによって、単一の意味で受けとられてしまわないような映像を試みること。
 
④さまざまな意味合いを含んだ複雑な内容によって、個々の観客が自由に解釈できる映像を試みること。
 
⑤画面に映し出されていない場所やその舞台裏についても、観客が想像力を発揮できる映像を試みること。
 
 まず④がおちます。「複雑な内容によって、個々の観客が自由に解釈できる映像」は「内面でのゆっくりとした対話によって、個々の観客が自由に解釈できる映像」となるはずです。 
 ⑤もダメですね。「舞台裏」なんて関係ないですから。舞台裏なんて関係ないですから。
※「複雑な内容〜」、「舞台裏」で区切って提示したのは、これらが被修飾語だからです。被修飾語に問題があれば、上にのっかている修飾語はどんなに正解であっても、全体としては×です。修飾語に惑わされないように注意してください。
 
 よって、解答は②となります。
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