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今日の国語

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2012立教大学文学部 問F

 問題文を読んで、「一体どうすればいいの?」とか、「何をいってんのか、わかんない」と思ったことは、誰しもあると思います。
 これを評して「悪文だらけの国語」などと的外れな批判をする人も少なくないようです。「的外れ」と評するのは、そもそも試験なのだから、わかりにくいのが当たり前だから、それに批判しても何も変わらないのだから、批判するより解答する方に力を入れた方が建設的だから、が理由です。
 加えて、たとえ悪文であっても、そのくらい出題者は十分理解して出題しています。
 悪文か悪文ではないか、を考えるよりも、どのように対応していけばいいのか、考えましょう。
 

「どういうことか」とはどういうことか?                  
 
 よくわからない質問の仕方の1つに「〜とはどういうことか」という質問の仕方があります。
 結論から言いましょう。
 私は「どういうことか」に、次の定義をあてています。
 
 「どういうことか」とは「本文中の言葉を用いて、わかりやすく言い換えること」である。
 
 この定義は、「読解」の本質を考えて導き出した結論です。
 受験問題は「読解力」を求めます。これは受験生自身による「感想(=自分の考え)」は一切不要、ということです。
 「感想(=自分の考え)」が不要ということは、基本的に「自分の言葉で語らない」ということでもあります。
 よって、作者の言葉を用いて、作者の意図を明らかにしていくことが基本となるはずです。
 これを「解釈」といいます。
 
 もちろん自分の言葉を使ってはいけない、ということではありません。要約したりするとき、本文中の言葉では間に合わず、自分の言葉を使って解答することも、よくある話です。
 でもそれは国語が得意な人がやることであって、得意でない人がやると、脇道に逸れかねません。
 ですから、基本として「本文中の言葉を用いて、わかりやすく言い換えること」としています。
 
 
「対比」を用いて、解釈する                        
 
 本文に入りましょう。問題文からです。
 
(F) ―――線部(4)について。「芸術家とか詩人とかいうものは、彼が芸術家とか詩人とかいうものからどこまで自分を切り裂いて行くかというところにその価値が懸ってくる」とはどういうことか。その説明として最も適当なもの一つを、次記各項の中から選び、番号で答えよ。
 
 「どういうことか」が出てきてますね。「芸術家とか詩人とかいうものは〜」の一文を言い換えよ、ということです。
 
 言い換えるとはいっても、いろんなやり方があることでしょう。
 単語レベルで言い換えることもあるかもしれませんが、ここではその方法はとりません。
 
 課題文分析のところで述べたことを再掲します。
 
 この段落では、対比の中でとりあげた「身を打ち込んでいる」を拡大しています。
 すなわち、「どこまで自分を切り裂いて行くか」です。
 そして、そのベースに「生活をどこまで叩き上げるか」ということがある、と述べています。
 
 実は、話(=解説)はここで終了しています。すなわち、この一文は、
 
芸術家とか詩人とかいうものは、彼が芸術家とか詩人とかいうものからどこまで自分を切り裂いて行くか(=生活を基礎として、身を打込んでいくか)というところにその価値が懸ってくる
 
 となります。
 芸術家とか詩人とかいうものは、生活を基礎とすることを忘れずに、どこまで身を打込んでいくかということです。
 〔芸術(家)・詩(人)ー生活〕が対比になっているので、生活を忘れた芸術・詩はダメ、ということでもあります。
 このあたりのことは、次の段落のドストエフスキーとツルゲーネフとの対比の中でも述べられていたことを想起できれば、最高です。
 このように解釈できたら、あとは選択肢へいくだけです。
 
 
同義反復から確認                             
 
 しかし、対比に気付いていない場合はどうするのか。
 段落から入っていくのが基本と思います。もう一度引用文を示しておきます。
 
芸術家とか詩人とかいうものは、彼が芸術家とか詩人とかいうものからどこまで自分を切り裂いて行くかというところにその価値が懸ってくる
 
 この一文だけでは、ひっかかってくるところは「芸術家とか詩人とかいうもの」というフレーズぐらいでしょう。
 そこで段落を確認しましょう。
 
 そこでそこからして僕は若干キテレツな次ぎのような考えを持っている。それは(4)芸術家とか詩人とかいうものは、彼が芸術家とか詩人とかいうものからどこまで自分を切り裂いて行くかというところにその価値が懸ってくる、ということなのだ。制作をどこまで叩き上げるかということは、生活をどこまで叩き上げるかということを基礎にしない限りいくらやってみても堕落だと思うのだ。作家が生活を叩き上げるということは制作を叩き上げることによってしかなされないということが真理であるにもかかわらずだ。 
 
 この段落をよく見れば、「それは芸術家とか詩人とかいうものは〜」の一文と「制作をどこまで叩き上げるかということは〜」の一文が「同義反復」になっています。ここがポイントになります。
 ものすごく単純かつ乱暴にいえば、解答は、
 
 制作をどこまで叩き上げるかということは、生活をどこまで叩き上げるかということを基礎にしない限りいくらやってみても堕落だと思うのだ。
 
 ということになります(もちろん解答としてはダメですが)。
 解釈を進めましょう。
 
 この文の文意は、「生活」のない「制作」は「堕落である」ということです。ややこしい言い方をしていますが、注目すべきは「制作」と「生活」とが対比になっているところです。
 そして次の段落でドストエフスキーとツルゲーネフの対比へと進んでいくのですが、ここまで来ると、やはり対比が中心になるであろうことは、容易に推測できると思います。
 つまり、生活のある制作は○、生活のない制作は×、ということです。
 
 あとはこれを「芸術家とか〜」に戻してやればいいわけです。
 今回は選択肢なので、ここまでやる必要はなく、対比がわかったら選択肢へと移動するのですが、練習の意味も込めて、もう少し深入りしておきます。
 
芸術家とか詩人とかいうものは、彼が芸術家とか詩人とかいうものからどこまで自分を切り裂いて行くかというところにその価値が懸ってくる
 
 言い換えのポイントになるのは、「彼が芸術家とか詩人とかいうものからどこまで自分を切り裂いて行くか」あたりでしょう。
 そもそもわかりにくいのは「自分を切り裂いて行くか」という表現です。自分を切り裂いてどうするんでしょう?
 
 ここを単品で読むと、行き詰まります。ここは「芸術家とか詩人とかいうものから」、換言すれば「制作から」をセットにしなければいけません。「制作からどこまで自分を切り裂いて行くか」です。
※文を考えるとき、文の切り方を間違えて行き詰まるのは、よくある話です。
 
 「制作から自分を切り裂」いてどうするのか?もちろん、生活の方にまわすんでしょうね。
 すなわち解答は、芸術家とか詩人とかの価値は、制作からどれだけ(制作の基礎となる)生活へエネルギーをまわすことができるか、ということで決定される、といったニュアンスで作成されることと思われます。
 あとは字数の問題です。
※字数によって解答の表現は大きく変化しますが、今はそこまでは立ち入りません。
 
 
選択肢を確認                               
 
1 芸術家や詩人にとって、制作することと生活することは同一であり、自分という存在を食いちぎり続ける不断の営みだけが価値をもつということ。
 
2 芸術家や詩人は、生活を発展させるためにどこまで制作を削り落とすことができるかを考え、より厳選された作品だけを遺そうとすることが大切だということ。
 
3 芸術家や詩人にとって重要なのは、生活を叩き上げることであり、次々と新しい制作に打ち込んでいくこともまた、生活を発展させるための方策だということ。
 
4 芸術家や詩人は、自分が過去に制作したものはもちろん、生活のなかに安住しようとする気持ちすら棄て去り、常に新しい価値を追求しなければならないということ。
 
5 芸術家や詩人が後世に伝えることができるのは、制作上の価値だけであり、彼自身がどのような人間で、どのような生活を送ったかを問う必要はないということ。
 
 解答の文体が統一されていませんね(センターでは統一されていることが多いのです)。
 逐一確認していきましょう。
 
1 芸術家や詩人にとって、制作することと生活することは同一であり、自分という存在を食いちぎり続ける不断の営みだけが価値をもつということ。
 →「自分という存在を食いちぎり続ける不断の営みだけが価値をもつ」はダメ。「食いちぎり続ける」は「切り裂いて行く」に対応させているのでしょうが、切り裂いていくのは「制作する自分」であり「自分という存在」自体ではありません。またここには〔制作ー生活〕の対比が存在しないのもダメ。
 
 
2 芸術家や詩人は、生活を発展させるためにどこまで制作を削り落とすことができるかを考え、より厳選された作品だけを遺そうとすることが大切だということ。
 →文が並列になっています。後半の「より厳選された作品」がダメ。筆者は作品にまで言及してません。
 
 
3 芸術家や詩人にとって重要なのは、生活を叩き上げることであり、次々と新しい制作に打ち込んでいくこともまた、生活を発展させるための方策だということ。
 →これですね。後半部がややわかりにくいですが、同段落の「作家が生活を叩き上げるということは制作を叩き上げることによってしかなされない」という部分から、消極的に理解されるでしょう。
 
 
4 芸術家や詩人は、自分が過去に制作したものはもちろん、生活のなかに安住しようとする気持ちすら棄て去り、常に新しい価値を追求しなければならないということ。
 →とんちんかんですね。ほっときましょう。
 
 
5 芸術家や詩人が後世に伝えることができるのは、制作上の価値だけであり、彼自身がどのような人間で、どのような生活を送ったかを問う必要はないということ。
 →作者の主張の逆(=制作と生活を切り離す)ですね。ダメ。
 
 
「どういうことか」                            
 
 今日は「どういうことか」から始めましたが、結局は対比で終了しました。
 「どういうことか」という問いかけは、普段は無視されています。そして、それで問題の意図がわかるのならばいいのです。でも問題が何を求めているのか、さっぱりわからないときには、ひとつの入り口として有効に機能します。
 つまり、「この文を本文中の言葉を用いて言い換えるのが基本なのね」という具合です。
 きちんと理解しておいてください。
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