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今日の国語

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2012立教大学文学部 問G

 今日で最後の問題です。正誤問題です。
 早速やっていきましょう。
 
 
課題文全体を対象とする                                           
 
 問題文を確認します。
 
(H) 次記各項のうち、本文の内容と合致するものを1、合致しないものを2として、それぞれ番号で答えよ。
 
 「本文の内容と合致するもの」はセンターの最終問題でもよくとりあげられるパターンです。
 こういうタイプの問題は、必ずではないにせよ、これまで解いた問題を違う形式にして繰り返していることが多いものです。つまり、これまで何度も用いてきた対比を中心に考え、必要に応じて該当部分をもう一度確認することで正解にたどりつけますが、今回はその限りではなく、微妙なところを突いてきます。
 
 確認していきましょう。
 
イ ファーブル『昆虫記』の魅力は肉体の思考を実験や観察で裏付けているところにある。
→ファーブルはこれまでの対比の中には登場しませんでした。具体例の中に埋没してしまったのでしょう。
 該当する段落を引用しておきます。
 
僕はファーブルやポアンカレーを素人考えで大そう好いているのだが、それは彼らの仕事の中身がつまっているからだ。僕は素人考えで好いているので、科学のことは何も知らない。僕の眼に映ったようなものは彼らの科学者としての仕事のほんの些細(ささい)な一部に過ぎないのだろう。だがそれならば、全体の仕事のほんの一部が、しかも科学者のことをまるで知らない一人の素人をそれほど感動させるとすれば、それは彼らの仕事の中身が全くひどくつまっているからだということになりはしなかろうか。例えば『昆虫記』の中で著者は綿々として話しかける。彼の中には天国ほども豊富な材料がある。天体の運行ほども正確な実験や観察の結果がある。そして彼自身には、それを語ろうとする大きな熱意だけがあって他意はない。彼は彼の話せるだけを話す。そしてそれっきりだ。彼は彼に対する愛憎を自然のように人まかせにしている。彼は行くところまで行き――その途中彼はただ行くことだけをする――そしてそこで倒れる。その仕事の仕振りは、いわばそのまま古典的であるほどにも水々しく、人をびっくりさせるほどにも素直である。
 
 ファーブルはポアンカレーと並列されています。ただし、対比の中で否定的に扱われたポアンカレーではありません。
 筆者は両者を好んでいます。その理由は「それは彼らの仕事の中身がつまっているから」です。
 これを詳しく述べますと「彼の中には……」以降の部分に該当します。これが「中味がつまっている」ということです。
 
 これらの内容をイと比較しましょう。
 イはファーブルの魅力を「肉体の思考を実験や観察で裏付けているところにある」としています。
 「裏付けている」という言い方に注目しましょう。「裏付けている」から面白いのであれば、「裏付けていな」ければ、面白くない、というのでしょうか?
 違いますね。
 「裏付けている」「裏付けていない」ではなく、「中味がつまっている」から面白いとしているのです。
 よってイは誤り。2です。
 
 あるいは別の考え方です。
 ファーブルとポアンカレーとは並列されており、両者は「中味がつまっている」から面白いとされています。
 もしイが正しいとすれば、ポアンカレーにもあてはまるはずです。
 しかし同じ科学者とはいえ、ポアンカレーにイの定義はあてはまるかどうか、確認されない。
 単に「中味がつまっている」と言われているだけです。
 よってイは誤り、としてもよいでしょう。
 
 
ロ 作家は、自分の作品について後から注解を加えるようなことをしてはならない。
→この文で注意しなければならないのは「後から注解を加えるようなこと」の意味です。
 該当箇所を引用しておきましょう。
 
 そこからして僕はまた、いい作家というものは新しい一つの仕事にそれまでのすべての仕事を打ち込むものだと考えている。最後の作の中へはその一つ手前までのいっさいをぶち込む。すべての経験、すべてのすでに取り扱われた対象、既に取り扱われた取扱い方、すべての大根(おおね)から小手先までの技術、そういうものいっさいをぶち込む。僕の考えによれば、このすべての瞬間にいっさいを叩き込むという態度こそ最も素樸な態度なのだ。
 人がこういう状態でいる時は誰もわき見したりつまらぬ気がねをしたりはしないだろう。その瞬間にやった自分の行為に対して註釈したり弁解したりしないだろう。そんなことはできないし、そんなことは吝(けち)臭く思われるだろう。で、僕は、作家なら作家は、彼の人間的価値を問うためには彼の制作上の価値だけを取り出して見せる覚悟を持つ必要があろうと考える。後世の全集編纂者や本屋の類が(注8)断簡零墨を蒐集するのはいいことだろうが、万一作家がそのことを全集編纂者や本屋の手代に期待して死ぬとあれば、彼は堕獄するしかあるまいと思うのだ。
 
 2番目の段落だけでよかったのですが、どうにも落ち着きが悪かったので、前の段落も引用しました。
 該当箇所は2番目の段落の「その瞬間にやった自分の行為に対して註釈したり弁解したりしないだろう」です。
 「自分の行為」が「自分の作品」に該当し、「注解を加える」が「註釈したり弁解したり」に該当します。
 
 筆者は、1番目の段落で「いい作家というものは新しい一つの仕事にそれまでのすべての仕事を打ち込むものだ」と述べ、だから「その瞬間にやった自分の行為に対して註釈したり弁解したりしないだろう」というわけです。
 ロを「その瞬間に」の言い換えだと考えれば、ロは正解となります。よって1。
 
 この問題のきわどいところは、「注解」という言葉にあります。
 「注解」の意味を「注釈」と解釈してしまい、自分の作品の解説をする、と解釈してしまえば、全く異なった方向へと進んでしまいます。
 非常にいやらしい言葉遣いではありますが、注意しましょう。
 
 
ハ 人間には、自分の仕事に誠実に取り組み、それを社会に役立てていく責任がある。
→これはイでみたファーブルのところを応用しても解答できます。
 ファーブルについて、筆者は「そして彼自身には、それを語ろうとする大きな熱意だけがあって他意はない。彼は彼の話せるだけを話す。そしてそれっきりだ」といいます。ここにはそもそも「社会」が入る余地はありません。
 よって誤り。2です。
 
 あるいは最終段落から考えてみてもよいでしょう。
 
 僕のひとり考えでは、仕事の価値はそれがどこまでそれを取り囲む人間生活の中に生き返るかにある。車輪の発明者を誰も記憶していない。だが車輪を使わない人間が一人もいないくらいに彼を記憶している。誰も車輪の発明者に感謝していない。しかし人間の残らずが車輪を使用しているということよりも立派な感謝状は一枚もないに違いない。我々はしばしば、歴史一般の中に掻き消されている力学の歴史、医学の歴史等々を忘れている。同様に芸術の歴史の中にしばしば掻き消されている芸術に関する学問の歴史を忘れている。また例えば演劇の歴史にしても、その中に撚り込められて素人には見えない演出の歴史、建築の歴史、照明の歴史等々を忘れている。忘れているどころか僕なぞはだいたい少しも知らない。そしてその無知からして、我々自身の文字となって残るような仕事だけが仕事だと思い込み、それがそれとして人の眼に映るために千万無量のお蔭を蒙っている眼に見えない仕事、瞬間に消えてゆくような仕事を仕事だとも思わないようになる。それは間違っており、無知であるために不遜であるところのものであり、仕事の価値を真実に知っており、それゆえこういう輩からは永久に顧みられないような仕事を一生の仕事としてコツコツと築いてゆくような賢い人たちからは憐まれるところのものであろう。こういう(5)本当の賢さを持った人たちから笑われ憐まれることのないような考え方こそ、僕は、我々の持つべき仕事に対する素樸な考え方だと考えている。
 
 最初の一文にある「人間生活」が「社会」に該当すると考えてよいでしょう。
 社会への貢献度が仕事の価値というわけです。
 その意味では「社会に役立てていく責任」もありそうですが、この段落はその後、「社会への貢献度が高いけれど発明者が忘れられている仕事」へと話がすすむわけで、「人間の責任」は議論の対象にはなっていません。
 微妙なところですが、議論の対象となっていない以上、誤り、2とすべきです。
 
 
ニ 自分がそれほど大切だと思っていないことで他人から誤解されるのは煩わしい。
→一体どこに書いてるんだ?と思われる一文です。確認に手間取るかもしれません。
 該当段落を引用します。最初の方の段落です。
 
 何でこんなことを一々断わるかというと、人の言うことを次ぎから次ぎへと勘違いして歩く人があるからだ。僕は、これもひとり合点なのだが、大切なことなら誤解されてもかまわないと思っている。大切なことは誰にでも理解されるというわけに行かないもので、それでもその大切なことはそれをまともに聞く耳をいつでも持っている。第一、誤解されない、捩(ね)じ曲げられない、あくどく喰ってかかられないような大切なことなぞはいくらもありはしないのだ。ただそれほど大切でないことは誤解されることを用心しなければならない。もしそういう誤解が生じてそれを解かなければならないとしたら、その仕事はなにしろ馬鹿々々しいに違いないから。それほどいいその素樸というものはそれならどんなものか。それが実は、素樸などというものを好きになったお蔭で僕に説明ができないのだ。僕は僕の思いついた話や譬(たと)え話をして、僕が考えている素樸に見当をつけてもらうことにする。
 
 「ただそれほど大切でないことは誤解されることを用心しなければならない」以降の部分です。
 「素朴」の話の中に紛れ込んでいること、選択肢の最後の方なのに、全体の最初のほうに該当箇所があること、が話をややこしくさせます。
 でも、ただそれだけのことです。
 
 
ホ ツルゲーネフにとって、作品を書くことと自分がどう生きるかは別問題だった。
→これはそのままですね。「正しい」ので1です
 
 
 以上で立教大学文学部の問題は終了です。
 何度も繰り返しますが、今回の問題は「対比」を学ぶために採用しました。
 その意味で、センター試験しか国語を受験しない生徒(理系の生徒など)にとっては、難しかったかもしれません。
 一部、センターとは異なるタイプの問題もありましたので(今日の問Hもその一例です)、国語はセンターのみという生徒は、これら例外的問題はほどほどに見ておいて、文中の対比のあり方、問題において対比をどう使うか、に注目して復習しておいてください。
 
 明日は漢文を扱います。
 漢文はブログ形式にもっともそぐわない?ため、大学入試センターの過去問を参照しておいてください。
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