シンプルに
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ページの右脇に、昨日の記事がのっかってしまいます。
とれません(私だけでしょうか?)。
見づらいでしょうが、修正する時間がありません。
しばらく我慢して、おつきあいください。
さて指摘するのを忘れていましたが、問2で対比が少し深まりました。
人間の眼……「見る」
カメラのレンズ……「見ることの死」
これが、
人間の眼……「見る」←剰余の眼に支えられることによって
カメラのレンズ……「見ることの死」←剰余の眼を一点に注ぎこむこと(=剰余の眼の死)によって
となりました。
今日は本文を確認しながら、問3を解きましょう。
今日のポイントは、重文と同義反復です(対比は言うまでもありません)。
同義反復、新登場の対比
限りなく拡がる世界の空間から特定されたひとつの被写体を選び、画面に切り取り、それ以外の空間は存在しないかのように排除し、無視することを求める映画の映像は、人間の生きた眼が無意識のうちに呼吸するリズム、その無用な遊びを禁じるようなものであっただろう。しかも映画はそれに見入っているわれわれの時間といったものにまで介入し、きびしく制限を加えることによって見ることの死を宣言するに等しかったのである。
同じカメラによる表現でありながら、一枚の写真と映画とを対比するならば、動く映像としての映画のありよう、その暴虐ぶりがより鮮明になるに違いない。現実にそこにあるものを映し出すかぎり、映画の映像と写真はともに複製の表現であり、現実をイメージによって捉え、抽象化する絵画とは異なると思われがちだが、それを見るという行為の側に立つならば、B写真と絵画は全く同質のものであっただろう。一枚の写真もまた絵のタブローと同じように見ているのであり、おびただしい剰余の眼差しに支えられて、いまわれわれはまぎれもなくその写真、その絵をみていることに気づくのである。
「限りなく~」の段落は、「カメラのレンズ」側の説明です。
前の段落の続きにすぎません。一見ややこしく見えますが、「見ることの死」について、言い方をかえながら繰り返しているだけです(「人間の生きた眼が無意識のうちに呼吸するリズム」云々は、そのまま「剰余の眼」に対応していますね)。
つまりこの段落は前の段落を「同義反復」しているだけです。
目新しい点といえば、「時間」が論の中にはいってきているくらいのことでしょうか。
次の「同じカメラによる~」の段落ですが、ここは少し話題が変わっているようです。
「一枚の写真と映画とを対比するならば」とあるように、新しい対比が登場しています。話が違う方向に向かうのでしょうか?
いえいえ、そんなことはありません。このように新しい対比が登場した場合は、必ずといってよいほど、元の対比と結びついていくのです。
「新登場の対比は、元の対比と結びつき、結局ひとつの対比に収まっていく」。
よくあるパターンです。
さて問3です。問題文を確認しておきましょう。
「どういうことか」とは「どういうことか」?
「傍線部B「写真と絵画はまったく同質のものであっただろう」とあるが、それはどういうことか」
これが問題の中心部分です。
「どういうことか」と問われていますが、そもそも「どういうことか」とは、「どういうこと」なのでしょうか?
結論から言いますと、私は「どういうことか?」に対して、次の定義を与えています。
「「どういうことか」とは、「本文中の言葉を用いて、わかりやすく言い換えること」である。
つまり、「どういうことか」に対して自分の考えを述べたり、自分の言葉で説明をしたりすることは厳禁だということです。自分の言葉で説明するなら、本文中に根拠をもたなければなりません。でも、国語が苦手という人が自分の言葉を使うとなると、きまってあさっての方に論がとびます。
だから「本文中の言葉を用いて」と言っているのです。
言い方をかえれば、「同義反復するかのように答えなさい」ということです。
では「写真と絵画はまったく同質のものであっただろう」を本文中の言葉を用いて言い換えていけばいいのか?といえば、単純にそういうわけではありません。方向性としては正しいのですが、その前に、もうひとつやらなければいけない作業があります。引用文の確認です。
重文と傍線部の処理
傍線を含む一文全体を引用しておきましょう。
現実にそこにあるものを映し出すかぎり、映画の映像と写真はともに複製の表現であり、現実をイメージによって捉え、抽象化する絵画とは異なると思われがちだが、それを見るという行為の側に立つならば、B写真と絵画は全く同質のものであっただろう。
この長い文は3つの文から構成されているとみなしてよいでしょう。
①現実にそこにあるものを映し出すかぎり、映画の映像と写真はともに複製の表現であり、
②現実をイメージによって捉え、抽象化する絵画とは異なると思われがちだが、
③それを見るという行為の側に立つならば、B写真と絵画は全く同質のものであっただろう。
いわゆる「重文」のパターンですね。
この3パーツの中で、もっとも重要性が高いのはどれか?もちろん③です。だから③にウェイトを置いて読まなければならないのですが、だからといって①②を完全に無視していいわけではありません。
①と②とは同義反復なのですが、述べている内容は、「映画の映像と写真とが同類で、絵画は両者と異質」ということです。
③はこれを受けているわけです。しかも逆接です。ということは③の内容は「でも実は写真と絵画とが同類で、映画が異質」ということですよね。
わかります?これがほぼ解答であるということ。
つまり「写真と絵画は全く同質のものであっただろう」とは、「写真と絵画とが同類であり、映画こそが異質であるということ」です。
「どういうことか」と問われたならば、本文中の語句を用いてわかりやすく言い換えること、と定義しましたが、じつは意図的に「言い換えなきゃ」なんて思わなくても、傍線部を含む一文をしっかり読めば、解答は自ずから出てくる場合がすくなくないのです。
傍線部の処理の仕方は、かなり重要なのです。
そして、その他にもいろんなパターンがありますが、それは問題を見ていくうちに修得していきましょう。
読み進めていきましょう。
一枚の写真もまた絵のタブローと同じように見ているのであり、おびただしい剰余の眼差しに支えられて、いまわれわれはまぎれもなくその写真、その絵をみていることに気づくのである。
絵画も写真も「おびただしい剰余の眼差しに支えられて」いる、とすれば、絵画・写真は「人間の眼」の方に属している、ということです。これで対比がひとつにまとまりました。
人間の眼……絵画・写真……剰余の眼差し○
カメラのレンズ……映画(……剰余の眼差し×)
「カメラのレンズ」側の(剰余の眼差し×)は直接には書いていませんが、対比構造から必然的に求められるデータです。これもデータのひとつとして取り込んでおきます。
選択肢の処理(主文中心に)
これだけでも選択肢から正解を選ぶことはできるでしょうが、選択肢のあり方も確認しておきましょう。
①動く映像としての映画のあり方と対比すれば明らかであるが、写真と絵画は現実に流れている時間を静止させて複製しているという点で、見る者からすれば同じ性質であるということ。
重文です。
全部で2つのパーツから構成されていますが、修飾語を切り離して3つとしておきましょう。
・動く映像としての映画のあり方と対比すれば明らかであるが、
・写真と絵画は現実に流れている時間を静止させて複製しているという点で、
・見る者からすれば同じ性質であるということ。
重要なのは3番目です。「(写真と絵画は)見る者からすれば同じ性質であるということ」は問題なしでしょう。
でも2番目の「時間を静止させて複製している」というのは、言い過ぎです。時間は「人間の眼」と「カメラのレンズ」の対比構造の中には登場していません。ただ、「見ることの死」を説明する際に少々登場しただけです。よってダメ。
②写真に写された世界はカメラによって切り取られ限定されているが、絵画も画家の眼により世界の一部がきりとられて画面に再現されている点で、同様に限定的なものであるということ。
主文を見ると、「同様に限定的なものであるということ」とありますが、「限定的」云々は「剰余の眼を一点に注ぎこむ」の言い換えでしょうね。ということは「人間の眼」ではなく「カメラのレンズ」の方をさします。写真や絵画は「人間の眼」のほうですから逆ですね。ダメ。(主文がコレなら、あとは読む価値なしです)。
③絵画を見るときの私たちの眼は一点を見つめているようであっても常に動きつづけているが、写真を見るときの私たちの視線もその上を浮遊し、自由に運動しつづけるものだということ。
主文「写真を見るときの私たちの視線もその上を浮遊し、自由に運動しつづけるものだということ」は問題ありませんね。「浮遊」「自由に運動しつづける」は「剰余の眼差し」のことでしょう。残りを確認すると「絵画を見るときの私たちの眼は一点を見つめているようであっても常に動きつづけているが」とあり、やはり「剰余の眼」を指摘しているので問題なし。正解は③です。
④レンズでとらえた写真と画家の肉眼がとらえた絵画とは異質な点もあるが、どちらも奥行きのない平面における表現であり、私たちの視線はそれらの表面を漂うしかないということ。
主文「 私たちの視線はそれらの表面を漂うしかないということ」。「漂う」?何のことでしょう?「剰余の眼差し」の言い換え損ないでしょうかね?ダメ。
⑤画家によって描かれる絵画と機会によって撮影される写真とは異質なものと思われがちだが、現実を何らかの媒介物に転写したものであるという点で、両者は同様であるということ。
主文「 両者は同様であるということ」は、一応問題なしでしょうか。でも「 現実を何らかの媒介物に転写したものであるという点で」は対比も何もあったもんじゃありません。めちゃくちゃです。ダメ。
さて、今日はここまでにしましょう。
最後に、今日、理解しておいてほしいことをまとめておきます。
以上です。
問題を読み込む
国語といえば、長文(ここでは課題文)を読み込んで、その内容がわかれば、問題も自ずから解ける、と考えている受験生は多いことと思います。おそらく、大半の受験生はそうでしょう。
通常、学校で勉強している国語は、いかに長文を読み解くか、ということに中心をおいていますから、そう考えるのももっともです。
では、どうして受験問題では点数がとれないのでしょうか?
課題文の読解が甘いから?それもあるかもしれません。
課題文を読み込む時間が不足するから?それもあるでしょう。試験には制限時間がありますから。
でも、私の経験からすれば、理由は違うところにあるようです。
国語が苦手である理由、それは「問題文の読みが甘いから」です。
※ここでは問題のベースとなる長文を「課題文」、問題の部分を「問題文」と区別しています。
問題文とは、いわば客の注文です。
いくら凄腕の料理人でも、注文を聞き違って料理を出せば、客からクレームがくるのは当然です。
ましてや、注文をろくに聞いていないなんて、言語道断です。
でも、受験国語では、客の注文ともいうべき、問題文の読みが甘い生徒は非常に多いのです。
それでは、いくら課題文を読み込んだところで、正解にはたどり着けません。
問2 傍線部「カメラのレンズをとおしてこの現実、この世界を見ること」とあるが、「カメラのレンズ」の機能の説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。
①カメラのレンズは、現実のさまざまな事物や出来事を、個別的にではなく連続的に写し取る。
②カメラのレンズは、現実のなかから被写体を選び出し、そのありのままの姿を正確に写し取る。
③カメラのレンズは、無限の現実から特定の対象を切り取ることにより、現実の世界を否定する。
④カメラのレンズは、連続する世界のなかから特定の部分を写し取り、それ以外の部分を排除する。
⑤カメラのレンズは、人間の手で自由に操作されるかぎりにおいて、人間の眼と同等の能力を持つ。
問題文を読むとき、もっとも注意してほしいのは、「何が求められているか」ということです。
今回、求められているのは「「カメラのレンズ」の機能の説明」です。ここに注意をしなければいけません。
「カメラのレンズ」の機能の説明。国語が苦手という人にとっては、頭の痛い問題かもしれません。
でも、私たちはすでに一度、「カメラのレンズ」を扱っているのです。そう、対比ですね。
「カメラのレンズ」の機能、それはずばり、「見ることの死」です。
では、「見ることの死」とは何か。それは、この段落に書いてあるはずです。
なぜなら、この課題文がそういう構成になっているからです。
→「人間の眼」と「カメラのレンズ」が対比になっていました。
→次の段落からしばらく「人間の眼」の説明が続きました。
→そして「カメラのレンズ」の説明になりました。
傍線がひかれているのは、この「カメラのレンズ」の段落です。
そして求められているのは「カメラのレンズ」の機能です。
「カメラのレンズ」つながりで、この段落の読み込みが重要であるのは、言うまでもないでしょう。
※本題から少々外れますが、問題を解く際には、傍線のある段落から確認を開始するのがセオリーです。
今回は、本文の構造から該当段落に注目すべき、と説明していますが、そこまで明確に判断がつかなくても、段落から見ていくのは絶対の約束事です。
詳細はのちほど述べます。
さて、段落を読んでいきましょう。
それとはまさしく相反して、Aカメラのレンズをとおしてこの現実、この世界を見ることは、こうした人間の眼の無用な動きを否定し、おびただしい剰余の眼がひとつの視点に注がれ、集中するように抑圧することであった。
この段落は一文で構成されています。
そして、傍線Aは一文の主語です。
確認していきましょう。
「カメラのレンズをとおしてこの現実、この世界を見ること」とはどういうことか。
3点指摘されていますね。
・こうした人間の眼の無用な動きを否定し、
・おびただしい剰余の眼がひとつの視点に注がれ
→おびただしい剰余の眼をひとつの視点に注ぎ込ませ
・集中するように抑圧すること
一部、扱いやすいように変換しておきました。意味のズレはないはずです。
※今回は3つにわけましたが、第2と第3とを一つにまとめて考えても問題ありません。
さて、この3点の内容を確認すると、ほぼ同内容が繰り返されていることがわかりますか?
(これくらいは自分で確認してください)
3点がほぼ同内容だとすれば、どれに代表させるか。
この場合は第2の「おびただしい剰余の眼がひとつの視点に注がれ」に着目しましょう。
理由は何か?
簡単です。前の段落に、このフレーズに対応する箇所があるのです。
前の段落を再度引用しましょう。
このように人間の生きた眼差しはこの世界の表面を軽やかに滑り、たえず運動をつづけており、なにかに見入ることによる視線の停止、非連続はあるかなきかの一瞬にすぎず、それが意識された瞬間には視線はすでに新たな運動を始めているのである。言葉をかえれば、そうした無用、無償の眼差し、おびただしい剰余の眼の動きに支えられて、われわれはこの現実とのたえざる連続を保ちながらこの世界のなかに生きつつあるのである。
「おびただしい剰余の眼の動きに支えられて、われわれはこの現実とのたえざる連続を保ちながらこの世界のなかに生きつつあるのである。」
この一文を組み替えて、「おびただしい剰余の眼(の動き)」を中心(主語)にして考えてみますと、「おびただしい剰余の眼の動き」は「われわれ」が「生きる」のに必要なもの、となりますね
※主語と述語を抜き取ると「われわれは……生きつつある」になります。それを応用しました。
剰余の眼(の動き)があるから、われわれは生きられる。
ということは、剰余の眼がなければ……生きられない、すなわち死ぬってことでしょうか?
ここで最初に指摘しておいた「カメラのレンズ=見ることの死」が生きてきます
まとめましょう。
カメラのレンズは、私たちの「剰余の眼」を「ひとつの視点に注ぎ」込ませる「機能」があり、それは「見ることの死」を招き寄せる機能でもある、となりますね。
これが含まれている選択肢こそが正解です。
もちろん、正解は④です。
今回は選択肢の読みは省略しました。選択肢が簡単だったからです。
そのうち、ややこしいのが登場するでしょうから、選択肢の読み方はそのときにでも説明します。
今日は問題文をよく読むことが、正解への第一歩であることを確認してください。
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