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今日の国語

シンプルに

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平成17年本試評論 問4

 なぜか問4が欠落していました
 多分、私のミスではないかと思います
 不慣れなためとはいえ、ご迷惑をおかけしました
 急ぎ、再録します

以下再録                                 

 昨日は結構もりだくさんでした。きちんと消化できましたか?
 今日の内容に入る前に、まずこれまでの対比の確認をしておきましょう。
 
  人間の眼……絵画・写真……剰余の眼差し○
  カメラのレンズ……映画(……剰余の眼差し×)
 
 並べてしまえば、これだけのことです。
 結構単純なんですが、本文は細かい説明が展開されていますので、なかなか気がつきません。
 この構造を頭に入れた上で、何度でも課題文を読み返してください。
 そして、文のリズムを体で感じ取ってください。
 究極的にいえば、文のリズムは頭で考えてもわかりません。体で感じとるものなんです。
 文のリズムを体で感じ取ることができるようになれば、私の方法論は不要になります。
 逆説的ですが、そんなもんです。
 
 考えなくても感じ取れるようになるまでは、ひとつひとつ頭を使うしかありません。
 その積み重ねによって、頭を使わずにリズムを汲み取れるようになる。
 そうするしかないんです。
 悲しいけど、こんなもんなんです。
 
 へこんでいても、しょうがないですね。今日の内容に入ります。
 
 
問題のすれ違い                              
 
 問4は、問題の設定自体にトリックがあります。
 このトリックに気がつかなければ、自分が何をやっているのか、何を求めているのか、わからなくなります。
 
問4 傍線部C「映画が映画であるのは、この速度を産み出す時間に依存している」とあるが、筆者は「映画」が「時間に依存している」ことでどのような結果が生じたと考えているか。
 
 傍線部を確認します。
 
 「映画が映画であるのは、この速度を産み出す時間に依存している」
 
 要するに、映画が映画であるのは、「時間」があるからだ、ということですね。
 逆に言えば、絵画や写真には「時間」がない。
 これは何となくイメージできるのではないでしょうか。映画には始まりがあり、終わりがある。ということは、その間に時間が存在するということですね。もっと噛み砕いて言えば、映画を見るのには時間が必要ということです。
 でも絵画や写真には始まりもなければ、終わりもない。ということは、その間に時間は存在しないということです。もっと噛み砕いて言えば、絵画や写真は5秒でパスしても、24時間じっと見ていても問題はない、ということです。映画ではこうはいかない。絵画や写真を見る時には、時間の制限はないわけで、その意味で時間は存在しない、といえるわけです。
 
 こうした解釈は、本当はやるべきではないのかもしれませんが(自分の言葉で説明するのは無根拠になりがちで、その分、危険でもあるからです)、大体はこんなところでしょう。これで問題が解けそうですね。
 
 でも、そうじゃないんです。
 求められていることは、そういうことではないんです。
 
 求められていることは何か。問題文を引用します。
 
   筆者は「映画」が「時間に依存している」ことでどのような結果が生じたと考えているか。
 
 そう、映画が時間に依存していることで、「どのような結果が生じたか」ということなんです。
 「映画が時間に依存している」とは「どういうことか」ではないんです。
 
 ここを読み違えると、話はずいぶんややこしい方向へと進んでいきます。
 「どのような結果が生じたか」、と「どういうことか」の違いですからね。
 全然違います。
 全く、油断も隙もあったもんじゃありません。
 
 
微妙ないいかえ(同義反復)                        
 
 では、「求められていること」を意識しながら、課題文の続きを読んでいきましょう。
 
 だが映画はそうした眼差しの無用さ、無償性を許そうとはせず、あくまで特定の視点を強要し、さらにわれわれがそれに見入っている時間に至るまできびしく制限しようとする、独占的なメディアと言うべきではなかっただろうか。
 かつて映画は時間の芸術という美しい名前で呼ばれた時代があった。しかもそれは時間とスピードに魅せられ、幻惑された二十世紀を象徴する言葉でもあっただろう。映画はそのフィルムのひと齣、ひと齣が、一秒間に二十四齣という眼にはとまらぬ速度で動くことによって、網膜に残像がしるしづけられ、われわれはそれを連続する映像として見るのである。そのかぎりでは映像のひと齣、ひと齣に加えられた速度、時間を停止してしまえば、映し出されているものは一枚の写真とかわらず、絵のタブローと同様にわれわれの眼が自由にそれを見ることができるはずである。
 従ってC映画が映画であるのは、この速度を産み出す時間に依存しているのであり、それはフィルムのひと齣、ひと齣の動きのみならず、一時間、あるいは二時間と連続して映写される時間の流れを誰もが疑わず、停止しようとはしなかったからであった。そして息つく間もないスピードの表現であることが、わずか二時間たらずのあいだに人間の一生を描くことができた理由であり、神による天地創造の神話から一億光年の彼方の宇宙の物語まで映画は語りえたのである。
 
 最初の「だが映画は……」の段落は、絵画・写真と比較してのことです。修飾語が多いので適当に省略して言えば、「映画は独占的なメディアというべきではなかっただろうか」といってるだけです。だって「剰余の眼」の一点に注ぎ込ませるし、時間の制約もするからです。これを一文でいえば、課題文のようになるんですね。
 次の段落では、映画と時間との関係を指摘します。時間をとめてしまえば、映画は一枚のタブローにすぎない。そりゃそうでしょう。時間をとめたら、そのシーンで画像がとまっちゃうでしょうからね。写真と何も変わらない。
 
 このへんまでは「時間に依存する」ことについて、くどくどと説明しているだけです。
 「時間に依存している結果」はまだ登場しません。
 山場は次の段落です。
 
 傍線を含む一文を確認します。
 
 従ってC映画が映画であるのは、この速度を産み出す時間に依存しているのであり、それはフィルムのひと齣、ひと齣の動きのみならず、一時間、あるいは二時間と連続して映写される時間の流れを誰もが疑わず、停止しようとはしなかったからであった。
 
 全体は2つの文により構成されています。
 
 ・従ってC映画が映画であるのは、この速度を産み出す時間に依存しているのであり、
 ・それはフィルムのひと齣、ひと齣の動きのみならず、一時間、あるいは二時間と連続して映写される時間の流れを誰もが疑わず、停止しようとはしなかったからであった。
 
 前半はもういいでしょう。映画が映画であるのは、時間に依存しているから、ということです。前述のとおり、絵画・写真との対比で読むのがコツです。
 後半は、「それは」と代名詞が使われているので、やや読みにくくなっていますが、「それ」の内容は、もちろん「映画が映画である(こと)」です。映画が映画であるのは、誰も時間を止めなかったからだ、というわけです。
 時間をとめたら、ただの写真になっちゃいますからね。
 
 今回は、傍線部を含む一文を確認しても、何もありませんでした。要するに、ただの繰り返しです。
 重要なのは次です。
 
そして息つく間もないスピードの表現であることが、わずか二時間たらずのあいだに人間の一生を描くことができた理由であり、神による天地創造の神話から一億光年の彼方の宇宙の物語まで映画は語りえたのである。
 
 この問題でもっとも重要なのはここです。
 
 「息つく間もないスピードの表現であることが」の意味がわかりますか?
 「息つく間もないスピードの表現である」とは「映画が」息つく間もないスピードの表現である、ということで、これは「映画は時間に依存している」ということの別表現(いいかえ、同義反復)なんです。
 
 今回は、ここがポイントになります。
 
 すなわち、映画は時間に依存しているから、「わずか二時間たらずのあいだに人間の一生を描くことができた」のであり、「神による天地創造の神話から一億光年の彼方の宇宙の物語まで映画は語りえた」のです。
 
 今回は、これで解答はでました。つまり、映画が時間に依存している結果、
  ・わずか二時間たらずのあいだに人間の一生を描くことができた
  ・神による天地創造の神話から一億光年の彼方の宇宙の物語まで映画は語りえた
のです。
 
  
主文中心に選択肢を確かめる                        
 
 仕上げに選択肢を確認しておきましょう。
 
①映画は、人間の一生をわずか二時間たらずで映し出すことを可能にしたが、観客をひきつける動く映像の迫真性によって、国家権力やコマーシャリズムに利用されてしまうという結果になった。

②映画は、一秒間に二十四齣というフィルムの映写速度で観客の眼差しを支配し、神話などの虚構まで表現することを可能にしたが、そうした錯覚によるまやかしは見ることの死をもたらした。

③映画は、限られた時間のなかで壮大な時空間を描き出すようなことを可能にしたが、映画に見入っている時間をきびしく制限しようとすることで、観客の眼差しを抑圧してしまうことになった。

④映画は、息つく間もないスピード感に満ちた物語や広大な宇宙の物語を表現することをも可能にしtが、ゆるやかに移ろいゆく時間を、反復とずれによって表現することが不可能になった。

⑤映画は、画像が連続する新しい芸術として発展したが、ひとたびその速度に慣らされてしまった観客には、絵画や写真のように静止した画像と内面でゆっくりと対話することが困難になった。
 
 今回は趣向をかえて、(大雑把にですが)主文だけをとりだしてみます。
 
①映画は、国家権力やコマーシャリズムに利用されてしまうという結果になった。
②映画は、そうした錯覚によるまやかしは見ることの死をもたらした。
③映画は、観客の眼差しを抑圧してしまうことになった。
④映画は、ゆるやかに移ろいゆく時間を、反復とずれによって表現することが不可能になった。
⑤観客には、絵画や写真のように静止した画像と内面でゆっくりと対話することが困難になった。
 
……正解は③しかありませんよね。
 
 一応、確認していきましょう。
①の国家権力やコマーシャリズムって、何のことなんでしょう?後で登場しますが、ここでは無関係です。
②も「錯覚のまやかし」って何でしょうか?関係ないですね。
④は「時間を……表現する」って何?時間を表現する?何のことでしょう?
⑤は観客は関係ない、とは言えませんが(「見る」のは観客ですから)、でも内面との対話?何のことでしょう?
 
 いずれも、「何のこと?」という内容ばかりですね。
 
 今日の内容は、
①問題はよく読まないと、引用文と求められている内容とが食い違っている時がある(要注意)
②選択肢は主文中心に攻めるのが効果的
 
 ただし、②については、いつもそうだとは限りません。
 方法の一つとして理解しておいてください。
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平成17年本試評論 問6

  今日でこの問題は終了です。
 最後に扱う問6ですが、苦手としている人が多いところでもあります。
 気持ちはわかります。一体どこを見ればいいのか、よくわからないのですから。
 挙げ句の果てには、時間がない中で、全部をもう一回見直さなければならない。しかも、問6は点数が高いところでもある。落とすと痛い。
 プレッシャーがかかりますね。
 
 プレッシャーのかかる問6をどうクリアするか。問6のあり方を考えることから始めましょう。
 
 
問6とは?                                
 
 評論は問1が漢字問題、問2から内容読解問題に入ります。
 これを細かく分けて考えてみると、問2〜問5までが部分問題、問6は総合問題(全体問題)といってよいでしょう。
 
 ここでちょっと考えてみてください。
 
 問2〜問5までが部分問題で、この4題がひろく全体をカバーする形になっています。
 ということは、課題文はこの段階で使い尽くされている、ということになりますね。
 課題文は消費されてしまっていて、ベストな問題は(とりあえず)出尽くしている、ということです。
 
 ということは……問6の入る余地などないはずです。
 ただ1つの方法を除いては。
 
 そのただ1つの方法とは、「繰り返し」です。
 問2〜問5を繰り返してやればいい。
 もちろん、そのままで繰り返すことはしません。ここに工夫がいるのは間違いありません
 でも、基本コンセプトとして、問2〜問5のあり方をベースにすれば、総合問題ができることになります。
 
 これが問6です。
 
 さらにこの考え方を敷衍してやると……
 
  ・問6は問2〜問5の繰り返しなのだから、国語の苦手な人は、まず問2〜問5の理解から着手すべきである。
  ・表現のあり方などが求められることがあるが、それは表面上のことにすぎない。本質は上記のとおり。
 
 となりますね。
 
 ここからは具体的に見ていきましょう。
 
 
対比の確認、問題の確認                          
 
 課題文は対比により成立していました。もう一度まとめてみましょう。
 
  ・絵画……見る………………時間に依存しない……内面との対話可能
  ・映画……見ることの死……時間に依存する………内面との対話不可能
 
 相変わらず大雑把ですが、あとは必要に応じて細かくしていけばOKでしょう。
 確認が済んだところで、問題の確認に入りましょう。
 
   問6 本文の内容に最もよく合致するものを、次の①~⑤のうちからひとつ選べ。
 
 ありがちな問題ですね。特にコメントは必要ないでしょう。
 あえていえば、「最もよく合致するもの」とは、「正解は複数の場合があるけど、それでもよく考えれば、1つにしぼりこめるよ」ということです。
 
 
選択肢の確認                               
 
①ひとつの意味を強調するという性質ゆえ、映画は国家権力やコマーシャリズムに悪用されるに至ったが、そのような事態に対して、小津安二郎の映画は、戯れや諧謔に満ちた自由な筋立てによって抵抗している。
 
②長大な時間の中で起こるできごとを二時間程度で表現できる点で、映画は日常的な時間の制約から自由な芸術であるが、小津安二郎の映画は、そのような自由を否定し、現実の時間の流れに従うように作られている。
 
③絵画や写真を鑑賞する場合と比べれば明らかなように、映画は観客の眼の運動を制限してただひとつの筋立てに従わせようとするが、小津安二郎の映画は、そのような制限を取払い、筋立てが複数化されている。
 
④カメラのレンズと比べて自由であるはずの眼の運動を制限することによって、映画は観客に特定の視点を強制するが、小津安二郎の映画は、そのような強制をまぬがれた見方を観客ができるように作られている。
 
⑤一方通行に早い速度で流れる時間を強いることで、映画は観客を独占的に支配するという一般的性質を持っているが、小津安二郎の映画は、そのような特質を徹底することで、かえって映画の限界を突破している。
 
 
 どの選択肢も「……だが、……だ」という構造をとっています。重文構造です。
 いつものように、主文の確認をします。
 
①小津安二郎の映画は、戯れや諧謔に満ちた自由な筋立てによって抵抗している。
 
②小津安二郎の映画は、そのような自由を否定し、現実の時間の流れに従うように作られている。
 
③小津安二郎の映画は、そのような制限を取払い、筋立てが複数化されている。
 
④小津安二郎の映画は、そのような強制をまぬがれた見方を観客ができるように作られている。
 
⑤小津安二郎の映画は、そのような特質を徹底することで、かえって映画の限界を突破している。
 
 何なんでしょう、これ?
 これだけでも正解は④しかないことが理解されると思いますが、いかがでしょうか?
 一応、確認しておきます。
 
①は「戯れや諧謔に満ちた自由な筋立て」なんて、対比構造には一切登場しません。①では「自由な筋立て」の対比として「国家権力やコマーシャリズムに悪用されるに至った」とあり、〔戯れ・諧謔・自由な筋立てー国家権力・コマーシャリズム〕の対比を打ち出していますが、こんな対比は本文には登場していません。
 
②「現実の時間の流れに従う」が正しければ、絵画もまた「現実の時間の流れに従う」ことになります。絵画に時間は存在しません。
 
③「筋立てが複数化されている」とはどういうことなんでしょう?絵画に複数の筋立てがあるというのでしょうか?
 
⑤「そのような特質(=一方通行に早い速度で流れる時間を強いることで、映画は観客を独占的に支配する)を徹底する」のならば、小津さんは映画の性質をつきつめたということであって、絵画の出る幕はなくなってしまいます。ダメ。
 
 
 これで問題は終了です。
 本来ならば、これで終わりなのですが、今回は問6の性質を確認する仕事が残っています。
 選択肢のあり方を検討してみましょう。
 
①ひとつの意味を強調するという性質ゆえ、映画は国家権力やコマーシャリズムに悪用されるに至ったが、そのような事態に対して、小津安二郎の映画は、戯れや諧謔に満ちた自由な筋立てによって抵抗している。
 →前半部の「ひとつの意味を〜至ったが」は問4。後半部は対比をねじまげた出題者のオリジナルです。
 
 
②長大な時間の中で起こるできごとを二時間程度で表現できる点で、映画は日常的な時間の制約から自由な芸術であるが、小津安二郎の映画は、そのような自由を否定し、現実の時間の流れに従うように作られている。
 →前半部「長大な〜芸術であるが」は問4。後半はオリジナル。
 
 
③絵画や写真を鑑賞する場合と比べれば明らかなように、映画は観客の眼の運動を制限してただひとつの筋立てに従わせようとするが、小津安二郎の映画は、そのような制限を取払い、筋立てが複数化されている。
 →前半部「絵画や〜とするが」は問4、問5。後半はオリジナル。
 
 
④カメラのレンズと比べて自由であるはずの眼の運動を制限することによって、映画は観客に特定の視点を強制するが、小津安二郎の映画は、そのような強制をまぬがれた見方を観客ができるように作られている。
 →前半部「カメラのレンズ〜強制するが」は問4、問5。後半部は対比より導き出された結論(絵画側のあり方を提示している)。
 
⑤一方通行に早い速度で流れる時間を強いることで、映画は観客を独占的に支配するという一般的性質を持っているが、小津安二郎の映画は、そのような特質を徹底することで、かえって映画の限界を突破している。
 →前半部「一方通行〜持っているが」は問4。後半部はオリジナル。
 

 今回の場合は、問4を中心に組まれていることがわかると思います。
 
 ついでに推測しておきましょう。
 この問6は、いずれも主文は「小津安二郎」でした。もう少し言えば、「小津安二郎の映画の特質」です。
 課題文は大半が小津安二郎とは関係のないところで論が展開された(絵画・写真と映画との対比です)ため、課題文が小津安二郎に関する評論だったのに、小津安二郎がほとんど登場しないこととなりました。
 そこで最後に、小津安二郎を組み込んだ問題を作りたい、と出題者は思ったのではないでしょうか。
 
 小津安二郎の映画の特質を問題に組み込もうとすれば、必然的に映画の一般的特質に言及せざるをえません。
 映画の一般的特質に言及した問題は問4です。
 これが問4が従文に登場する理由ではないでしょうか。
 
 そしてさらに、問題を作成するとき、〔絵画・写真ー映画〕の対比自体に細工をすれば、問題が難しくなりすぎる。
 対比の存在に気がつかず、その場限りの読解で何とかしている受験生に対して、絵画の話を持ちだせば、彼らの理解の範疇を越えてしまう。あるいは、時間がかかりすぎる。
 そのため、細工をするとすれば、主に小津安二郎の方にならざるを得ない。
 小津安二郎の方ならば、最後の段落にまとめられているし、映画の一般的特質も、小津安二郎の登場の直前に書いてある。
 確認範囲が比較的狭くなる。
 
 おそらくはこうした思考が働いたのではないでしょうか。
 
 もちろん、推測ですがね。
 
 さて、今回はここで終了しましょう。
 お疲れさまでした。
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平成17年本試評論 問5

 ブログのタイトルを問題No.に対応させたほうがラクだということに、今頃気がつきました……。
 早速、そうすることにします。
 
 前回、主文だけを抜き出して、それだけで判断することをやりましたが、本当にそれでいいのか?という疑問もあることでしょう。
 返答は「基本的にOK」です。
 選択肢のありかたは「言い訳」のあり方みたいなもの(というか、「言い訳」そのもの)なんです。
 言い訳の面白いところは、従文がやたら長くて、ややこしくて、理解するのが面倒なところですね。そのくせ、主文にくると、途端に意気地がなくなる。
 
 「だってね、あれがこうして、これがこうなって、だからそれがそうなって、だから僕はこれをこうして、こうなってああなってそうなって、で、……となっちゃったんです……」
 
 主文は最後の「……となっちゃたんです……」の部分です。
 彼は言うべきだけど言いづらいことを言えなくて、ああだこうだと、主文の前にどうでもいいことを並べ立てているだけなんです。
 私たちは、こういう状況でも、彼のいうことを基本的にはしっかり認識できます。
 
 「え!?、ほんとにそうなっちゃったの!?」
 
 「ほんとにそうなっちゃったの」は「……となっちゃったんです……」に対応する返答です。
 これは結果的に、主文が何か、聞き手は十分わかっている、ということです。
 この現象を選択肢に応用したのが、「主文を比べる」というテクニックです。
 これだけで①〜⑤の選択肢中、4つが落ちるというのは珍しいのですが。
   ※主文だけでは結論が出ない場合は、そこではじめて従文を確認します。
 
 さて本論に入ります。
 今日は問5です。
 
 
書名から内容へ                              
 
 今更ですが、この課題文の出典は吉田喜重「小津安二郎の反映画」です。
 
 〔絵画・写真ー映画〕の対比を既に発見している人は、このタイトルを見れば、「この本は小津安二郎の映画は、絵画的、写真的なものであって、剰余の視線を許す映画なんだろうな(具体的にはわかんないけど)」と思うのではないでしょうか。
 
 正解です。
 私はこの本を読んでいませんので、本全体でどうなっているのかはわかりませんが、少なくとも課題文に引用しているレベルでは正解といってさしつかえないと思います。
 
 では、今日の本文を引用しておきましょう。
 
 しかしながら映画を見るという行為は、一瞬たりとも休むことのない時間の速度にとらわれ、その奴隷と化することでもあった。静止して動くことのない絵画や写真の場合は、さまざまな視点から自由に眺めながら、みずからの内面でゆっくりと対話することもできるだろう。だが映画は一方通行的に早い速度で流れる時間に圧倒されて、ついにはひとつの意味しか見出せない危険な表現であり、二十世紀の国家権力やコマーシャリズムが濫用し、悪用したのも、こうした映画における見ることの死であったのである。
 
 まずはここまで。
 
 
難解ないいまわしと対比                          
 
 この段落を見てみましょう。
 
 最初に「しかしながら映画を見るという行為は、一瞬たりとも休むことのない時間の速度にとらわれ、その奴隷と化することでもあった。」とあります。この文、難解ですね。「映画を見るという行為」はわかります。そのままですね。
 でも「一瞬たりとも休むことのない時間の速度にとらわれ」とは何でしょう?時間の速度にとらわれる?
 「その奴隷と化することでもあった」?
 主語を合わせると、「映画を見るという行為は、その奴隷と化することでもあった」となりますが、これでもわからない。
 
 次の「静止して動くことのない絵画や写真の場合は、さまざまな視点から自由に眺めながら、みずからの内面でゆっくりと対話することもできるだろう」は、わかりますよね。絵画や写真の場合は、見て感じて考えて、考えてそして見る、ということができますから。
 
 ということは、絵画・写真は映画と対比ですから、「静止して……」の文の逆の意味が、映画に相当するはずです。
 すなわち、
 
 動いて止まることのない映画の場合は、さまざまな視点から自由に眺めながら、みずからの内面でゆっくりと対話することなんてできやしない。
 
 というのが、「しかしながら……」の意味なのです。
 そして同義反復が来ます。
 
 だが映画は一方通行的に早い速度で流れる時間に圧倒されて、ついにはひとつの意味しか見出せない危険な表現であり、
 
 おわかりですか?
 
 映画は「一方通行的に早い速度で流れる時間に圧倒されて」「さまざまな視点から自由に眺めながら、みずからの内面でゆっくりと対話することなんてできやしない」から「ついにはひとつの意味しか見出せない危険な表現であ」る、と言っているんです。
 だから結果として、「その奴隷と化すること」となり、具体的には「二十世紀の国家権力やコマーシャリズムが濫用し、悪用」することとなったんです。単純化していえば、考えることができなくて、ついつい従ってしまう、ということです。
 
 この段落は表現が難解なため、敬遠しがちかもしれません。
 でもターゲットを絞り(この場合は「映画」)、対比を利用しながら内容を単純化(話題を「映画」に統一)すれば、案外わかりやすくなるものなのです。
 
 さて、その対比ですが、ここでもうひとつ情報が加わりました(気がつきましたか?)。
 
  絵画・写真……内面でゆっくり対話可能
  映画……内面でゆっくり対話、不可能(←直接に言及されていない 対比によって判断する)

新しい情報を意識しながら、次にいきましょう。
 
 
具体例としての「小津安二郎」                       
 
 そもそも課題文は「小津安二郎」についてのはずでした(書名より)。
 ここにきてようやく本題の登場です。
 
 しかし、実はもういうべきことはいってしまったはずなんです。
 なぜなら〔絵画・写真ー映画〕の対比は十分に論じられてきたから。
 あとは小津安二郎を、この対比の枠の中にいれてしまえば、おしまいのはずです。
 
 いうなれば、小津安二郎は具体例ですね。
 
 それにしても小津さんは新たなメディアとしての映画が持ちあわせた特権、その魅力をことごとく否定する。まさしく反映画の人であったと言うほかはない。カメラのレンズをとおして現実を切り取り、それを映像化することが世界の秩序を乱すと懸念する小津さんであれば、われわれの無用な、無償の眼差しを許そうとしない映画の独占的な支配を受け入れるはずもなかった。ましてや反復とずれによって気づかぬうちに移ろいゆくのが小津さんが感じる時間とその流れであり、二時間たらずの映画の上映で人間の一生が語りつくされたり、一億光年の宇宙の果てまで旅するような時間の超スピードぶりは、われわれの眼を欺くまやかしでしかなかった。
 
 最初の「それにしても小津さんは〜ほかはない」というのは、小津さんは「絵画・写真」の側の人だった、と指摘しているにすぎません。「カメラのレンズ〜」は、これまで述べてきた映画の弱点(悪口?)を羅列しているだけです。とりたてて目新しいものはありません。
 
 
 だが小津さんは映画表現のありようにまさしく反抗しながら、それにもかかわらず限りなく映画を愛するという矛盾をみごとに生きぬいた人でもあった。そんためには映画のまやかしと戯れつづけ、共棲しまうといった、あの小津さんらしい諧謔ぶりがおのずから求められたのである。
 
 小津さんは映画の側の人でありながら、絵画・写真の人であり、絵画・写真の人でありながら、映画側の人だった、と言っているだけです。
 これは既に予想されていたことですね。特に注意するほどのことでもありません。
 
 
 トーキー映画である『一人息子』にしても、科白や音響効果によって映画がいっそう表現力を高め、迫真性が加わることを嫌い、あえて意味が曖昧なままに浮遊する映像を、トーキー映画への戯れとして小津さんは試みたに違いない。事実、場末のゴミ処理場を望む野原に座って語りあう母親と息子のシーンは、たしかに科白は聴こえながら、対話しあっているとは思えないようにモンタージュされており、その視線もまたたがいに宙に漂い、すれ違うようにしてあてもなく拡散していく。従って母親と息子とが親しく語りあうことがドラマでありながら、画面に映し出されている俳優の姿かたち、人間としての存在のありようのほうが否応なく、よりくっきりと浮き彫りにされ、映画の筋立てとはかかわりなく、われわれの無用の眼差しによってそれは見られてしまうのである。 
 
 ただの具体例です。
 最後のほうに絵画・写真側の用語「無用の眼差し」が用いられているのが、面白いですね。
 
 
 おそらく小津さんがひそかに心に描いていたのは、D「見せる」ことよりも、われわれの無用、無償の眼差しによって「見られる」映像を試みることにあったのではないだろうか。映画にたずさわる人間であれば誰しもが、その表現の一方通行的である優位さを過信して、観客に映像を「見せる」ことに腐心するのだろうが、小津さんにかぎっては「見せる」ことよりも、観客によって「見られる」、あるいは「見返される」映像を実現するために心を砕いたのである。
 
 ようやく問題の箇所にたどり着きました。
 では、問題に入っていきましょう。
 
問5 傍線部「「見せる」ことよりも、われわれの無用、無償の眼差しによって「見られる」映像を試みることにあった」とあるが、どういうことか。
 
 小津さんは絵画・写真側にたった映画を作ることを試みていた、ということですね。
 「見られる」となっていますが、「見る」のは観客のほうですから、映像は「見られる」と表現されます。
 
 
①スピード感を持たせた編集によって観客に一方通行的に映像を見せるのではなく、ゆるやかなテンポを持たせた編集によって、観客が余裕を持って画面の細部まで見ることができるような映像を試みること。
 
②時間の流れに従属させることで観客の視線を限定するような映像を見せるのではなく、観客それぞれの自由な見方に任せることによって、単一の意味で受けとられてしまわないような映像を試みること。
 
③特定の視点から撮影することでそれ以外の空間が存在しないかのような映像を見せるのではなく、人間の眼がさまざまな空間を自由に見ることができるのと同様に、多様な角度からの映像を試みること。
 
④作り手の表現意図の伝達を目的としてすべての観客が同じ意味に到達するような映像を見せるのではなく、さまざまな意味合いを含んだ複雑な内容によって、個々の観客が自由に解釈できる映像を試みること。
 
⑤フィルムのひと齣ひと齣を連続して映写することで観客の視線をくぎ付けにする映像を見せるのではなく、画面に映し出されていない場所やその舞台裏についても、観客が想像力を発揮できる映像を試みること。
 
 主文だけに変換しましょう(大雑把にやっています)。
 
①観客が余裕を持って画面の細部まで見ることができるような映像を試みること。
②単一の意味で受けとられてしまわないような映像を試みること。
③多様な角度からの映像を試みること。
④個々の観客が自由に解釈できる映像を試みること。
⑤観客が想像力を発揮できる映像を試みること。
 
 これだけでも、①③は落ちますね。
 ①は画面の細部を見せればいいというものでもないでしょ、ということで落ちます。
 ③は「多様な角度」の意味がわかりません。
 
 この選択肢は「……ではなく、……だ」という具合に、上に否定語のフレーズが置かれています。
 主張は否定形ではなされませんから、ここを保留しながら、残りをもう一度だしてみます。
 
②観客それぞれの自由な見方に任せることによって、単一の意味で受けとられてしまわないような映像を試みること。
 
④さまざまな意味合いを含んだ複雑な内容によって、個々の観客が自由に解釈できる映像を試みること。
 
⑤画面に映し出されていない場所やその舞台裏についても、観客が想像力を発揮できる映像を試みること。
 
 まず④がおちます。「複雑な内容によって、個々の観客が自由に解釈できる映像」は「内面でのゆっくりとした対話によって、個々の観客が自由に解釈できる映像」となるはずです。 
 ⑤もダメですね。「舞台裏」なんて関係ないですから。舞台裏なんて関係ないですから。
※「複雑な内容〜」、「舞台裏」で区切って提示したのは、これらが被修飾語だからです。被修飾語に問題があれば、上にのっかている修飾語はどんなに正解であっても、全体としては×です。修飾語に惑わされないように注意してください。
 
 よって、解答は②となります。
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平成17年本試評論4

 ページの右脇に、昨日の記事がのっかってしまいます。
 とれません(私だけでしょうか?)。

 見づらいでしょうが、修正する時間がありません。
 しばらく我慢して、おつきあいください。

 さて指摘するのを忘れていましたが、問2で対比が少し深まりました。

  人間の眼……「見る」
  カメラのレンズ……「見ることの死」

 これが、

  人間の眼……「見る」←剰余の眼に支えられることによって
  カメラのレンズ……「見ることの死」←剰余の眼を一点に注ぎこむこと(=剰余の眼の死)によって

 となりました。

 今日は本文を確認しながら、問3を解きましょう。
 今日のポイントは、重文と同義反復です(対比は言うまでもありません)。


同義反復、新登場の対比                          


 限りなく拡がる世界の空間から特定されたひとつの被写体を選び、画面に切り取り、それ以外の空間は存在しないかのように排除し、無視することを求める映画の映像は、人間の生きた眼が無意識のうちに呼吸するリズム、その無用な遊びを禁じるようなものであっただろう。しかも映画はそれに見入っているわれわれの時間といったものにまで介入し、きびしく制限を加えることによって見ることの死を宣言するに等しかったのである。
 同じカメラによる表現でありながら、一枚の写真と映画とを対比するならば、動く映像としての映画のありよう、その暴虐ぶりがより鮮明になるに違いない。現実にそこにあるものを映し出すかぎり、映画の映像と写真はともに複製の表現であり、現実をイメージによって捉え、抽象化する絵画とは異なると思われがちだが、それを見るという行為の側に立つならば、B写真と絵画は全く同質のものであっただろう。一枚の写真もまた絵のタブローと同じように見ているのであり、おびただしい剰余の眼差しに支えられて、いまわれわれはまぎれもなくその写真、その絵をみていることに気づくのである。

 「限りなく~」の段落は、「カメラのレンズ」側の説明です。
 前の段落の続きにすぎません。一見ややこしく見えますが、「見ることの死」について、言い方をかえながら繰り返しているだけです(「人間の生きた眼が無意識のうちに呼吸するリズム」云々は、そのまま「剰余の眼」に対応していますね)。

 つまりこの段落は前の段落を「同義反復」しているだけです。

 目新しい点といえば、「時間」が論の中にはいってきているくらいのことでしょうか。

 次の「同じカメラによる~」の段落ですが、ここは少し話題が変わっているようです。
 「一枚の写真と映画とを対比するならば」とあるように、新しい対比が登場しています。話が違う方向に向かうのでしょうか?

 いえいえ、そんなことはありません。このように新しい対比が登場した場合は、必ずといってよいほど、元の対比と結びついていくのです。

 「新登場の対比は、元の対比と結びつき、結局ひとつの対比に収まっていく」。

 よくあるパターンです。

 さて問3です。問題文を確認しておきましょう。


「どういうことか」とは「どういうことか」?                

傍線部B「写真と絵画はまったく同質のものであっただろう」とあるが、それはどういうことか」

 これが問題の中心部分です。

 「どういうことか」と問われていますが、そもそも「どういうことか」とは、「どういうこと」なのでしょうか?

 結論から言いますと、私は「どういうことか?」に対して、次の定義を与えています。

「「どういうことか」とは、「本文中の言葉を用いて、わかりやすく言い換えること」である。

 つまり、「どういうことか」に対して自分の考えを述べたり、自分の言葉で説明をしたりすることは厳禁だということです。自分の言葉で説明するなら、本文中に根拠をもたなければなりません。でも、国語が苦手という人が自分の言葉を使うとなると、きまってあさっての方に論がとびます。

 だから「本文中の言葉を用いて」と言っているのです。

 言い方をかえれば、「同義反復するかのように答えなさい」ということです。

 では「写真と絵画はまったく同質のものであっただろう」を本文中の言葉を用いて言い換えていけばいいのか?といえば、単純にそういうわけではありません。方向性としては正しいのですが、その前に、もうひとつやらなければいけない作業があります。引用文の確認です。


重文と傍線部の処理                            


 傍線を含む一文全体を引用しておきましょう。

現実にそこにあるものを映し出すかぎり、映画の映像と写真はともに複製の表現であり、現実をイメージによって捉え、抽象化する絵画とは異なると思われがちだが、それを見るという行為の側に立つならば、B写真と絵画は全く同質のものであっただろう

 この長い文は3つの文から構成されているとみなしてよいでしょう。
現実にそこにあるものを映し出すかぎり、映画の映像と写真はともに複製の表現であり、
②現実をイメージによって捉え、抽象化する絵画とは異なると思われがちだが、
③それを見るという行為の側に立つならば、B写真と絵画は全く同質のものであっただろう

 いわゆる「重文」のパターンですね。

 この3パーツの中で、もっとも重要性が高いのはどれか?もちろん③です。だから③にウェイトを置いて読まなければならないのですが、だからといって①②を完全に無視していいわけではありません。
 ①と②とは同義反復なのですが、述べている内容は、「映画の映像と写真とが同類で、絵画は両者と異質」ということです。

 ③はこれを受けているわけです。しかも逆接です。ということは③の内容は「でも実は写真と絵画とが同類で、映画が異質」ということですよね。

 わかります?これがほぼ解答であるということ。

 つまり「写真と絵画は全く同質のものであっただろう」とは、「写真と絵画とが同類であり、映画こそが異質であるということ」です。

 「どういうことか」と問われたならば、本文中の語句を用いてわかりやすく言い換えること、と定義しましたが、じつは意図的に「言い換えなきゃ」なんて思わなくても、傍線部を含む一文をしっかり読めば、解答は自ずから出てくる場合がすくなくないのです。

 傍線部の処理の仕方は、かなり重要なのです。
 そして、その他にもいろんなパターンがありますが、それは問題を見ていくうちに修得していきましょう。

 読み進めていきましょう。

一枚の写真もまた絵のタブローと同じように見ているのであり、おびただしい剰余の眼差しに支えられて、いまわれわれはまぎれもなくその写真、その絵をみていることに気づくのである。

 絵画も写真も「おびただしい剰余の眼差しに支えられて」いる、とすれば、絵画・写真は「人間の眼」の方に属している、ということです。これで対比がひとつにまとまりました。

  人間の眼……絵画・写真……剰余の眼差し○
  カメラのレンズ……映画(……剰余の眼差し×)

 「カメラのレンズ」側の(剰余の眼差し×)は直接には書いていませんが、対比構造から必然的に求められるデータです。これもデータのひとつとして取り込んでおきます。 

 

選択肢の処理(主文中心に)                        

 これだけでも選択肢から正解を選ぶことはできるでしょうが、選択肢のあり方も確認しておきましょう。

①動く映像としての映画のあり方と対比すれば明らかであるが、写真と絵画は現実に流れている時間を静止させて複製しているという点で、見る者からすれば同じ性質であるということ。

 重文です。
 全部で2つのパーツから構成されていますが、修飾語を切り離して3つとしておきましょう。


・動く映像としての映画のあり方と対比すれば明らかであるが、
・写真と絵画は現実に流れている時間を静止させて複製しているという点で、
・見る者からすれば同じ性質であるということ。

 重要なのは3番目です。「(写真と絵画は)見る者からすれば同じ性質であるということ」は問題なしでしょう。
 でも2番目の「時間を静止させて複製している」というのは、言い過ぎです。時間は「人間の眼」と「カメラのレンズ」の対比構造の中には登場していません。ただ、「見ることの死」を説明する際に少々登場しただけです。よってダメ。


②写真に写された世界はカメラによって切り取られ限定されているが、絵画も画家の眼により世界の一部がきりとられて画面に再現されている点で、同様に限定的なものであるということ。

 主文を見ると、「同様に限定的なものであるということ」とありますが、「限定的」云々は「剰余の眼を一点に注ぎこむ」の言い換えでしょうね。ということは「人間の眼」ではなく「カメラのレンズ」の方をさします。写真や絵画は「人間の眼」のほうですから逆ですね。ダメ。(主文がコレなら、あとは読む価値なしです)。


③絵画を見るときの私たちの眼は一点を見つめているようであっても常に動きつづけているが、写真を見るときの私たちの視線もその上を浮遊し、自由に運動しつづけるものだということ。

 主文「写真を見るときの私たちの視線もその上を浮遊し、自由に運動しつづけるものだということ」は問題ありませんね。「浮遊」「自由に運動しつづける」は「剰余の眼差し」のことでしょう。残りを確認すると「絵画を見るときの私たちの眼は一点を見つめているようであっても常に動きつづけているが」とあり、やはり「剰余の眼」を指摘しているので問題なし。正解は③です。


④レンズでとらえた写真と画家の肉眼がとらえた絵画とは異質な点もあるが、どちらも奥行きのない平面における表現であり、私たちの視線はそれらの表面を漂うしかないということ。

 主文「 私たちの視線はそれらの表面を漂うしかないということ」。「漂う」?何のことでしょう?「剰余の眼差し」の言い換え損ないでしょうかね?ダメ。


⑤画家によって描かれる絵画と機会によって撮影される写真とは異質なものと思われがちだが、現実を何らかの媒介物に転写したものであるという点で、両者は同様であるということ。

 主文「 両者は同様であるということ」は、一応問題なしでしょうか。でも「 現実を何らかの媒介物に転写したものであるという点で」は対比も何もあったもんじゃありません。めちゃくちゃです。ダメ。

 さて、今日はここまでにしましょう。
 最後に、今日、理解しておいてほしいことをまとめておきます。

  1. 段落の中は同義反復されていることが多いので、十分利用する
  2. 新登場の対比は、その前にあった対比に何らかの形で吸収され、ひとつの対比になっていく
  3. 「どういうことか」=「本文中の言葉を用いながら、わかりやすく言い換える」
  4. 傍線部は傍線部を含む一文で考える
  5. 重文パターンの文は、主文を最初に考える

 以上です。

 

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平成17年度本試評論3

問題を読み込む                         

 国語といえば、長文(ここでは課題文)を読み込んで、その内容がわかれば、問題も自ずから解ける、と考えている受験生は多いことと思います。おそらく、大半の受験生はそうでしょう。

 通常、学校で勉強している国語は、いかに長文を読み解くか、ということに中心をおいていますから、そう考えるのももっともです。

 では、どうして受験問題では点数がとれないのでしょうか?

 課題文の読解が甘いから?それもあるかもしれません。
 課題文を読み込む時間が不足するから?それもあるでしょう。試験には制限時間がありますから。
 
 でも、私の経験からすれば、理由は違うところにあるようです。


 国語が苦手である理由、それは「問題文の読みが甘いから」です。
  ※ここでは問題のベースとなる長文を「課題文」、問題の部分を「問題文」と区別しています。

 問題文とは、いわば客の注文です。

 いくら凄腕の料理人でも、注文を聞き違って料理を出せば、客からクレームがくるのは当然です。
 ましてや、注文をろくに聞いていないなんて、言語道断です。

 でも、受験国語では、客の注文ともいうべき、問題文の読みが甘い生徒は非常に多いのです。
 それでは、いくら課題文を読み込んだところで、正解にはたどり着けません。

問2 傍線部「カメラのレンズをとおしてこの現実、この世界を見ること」とあるが、「カメラのレンズ」の機能の説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。

①カメラのレンズは、現実のさまざまな事物や出来事を、個別的にではなく連続的に写し取る。
②カメラのレンズは、現実のなかから被写体を選び出し、そのありのままの姿を正確に写し取る。 
③カメラのレンズは、無限の現実から特定の対象を切り取ることにより、現実の世界を否定する。
④カメラのレンズは、連続する世界のなかから特定の部分を写し取り、それ以外の部分を排除する。
⑤カメラのレンズは、人間の手で自由に操作されるかぎりにおいて、人間の眼と同等の能力を持つ。

 問題文を読むとき、もっとも注意してほしいのは、「何が求められているか」ということです。
 今回、求められているのは「「カメラのレンズ」の機能の説明」です。ここに注意をしなければいけません。

 「カメラのレンズ」の機能の説明。国語が苦手という人にとっては、頭の痛い問題かもしれません。
 でも、私たちはすでに一度、「カメラのレンズ」を扱っているのです。そう、対比ですね。
 「カメラのレンズ」の機能、それはずばり、「見ることの死」です。

 では、「見ることの死」とは何か。それは、この段落に書いてあるはずです。
 なぜなら、この課題文がそういう構成になっているからです。

 →「人間の眼」と「カメラのレンズ」が対比になっていました。
  →次の段落からしばらく「人間の眼」の説明が続きました。
   →そして「カメラのレンズ」の説明になりました。

 傍線がひかれているのは、この「カメラのレンズ」の段落です。
 そして求められているのは「カメラのレンズ」の機能です。
 「カメラのレンズ」つながりで、この段落の読み込みが重要であるのは、言うまでもないでしょう。

 

※本題から少々外れますが、問題を解く際には、傍線のある段落から確認を開始するのがセオリーです。
 今回は、本文の構造から該当段落に注目すべき、と説明していますが、そこまで明確に判断がつかなくても、段落から見ていくのは絶対の約束事です。
 詳細はのちほど述べます。

 さて、段落を読んでいきましょう。

 それとはまさしく相反して、Aカメラのレンズをとおしてこの現実、この世界を見ることは、こうした人間の眼の無用な動きを否定し、おびただしい剰余の眼がひとつの視点に注がれ、集中するように抑圧することであった。

 この段落は一文で構成されています。
 そして、傍線Aは一文の主語です。

 確認していきましょう。
 「カメラのレンズをとおしてこの現実、この世界を見ること」とはどういうことか。
 3点指摘されていますね。

  ・こうした人間の眼の無用な動きを否定し、
  ・おびただしい剰余の眼がひとつの視点に注がれ
    →おびただしい剰余の眼をひとつの視点に注ぎ込ませ
  ・集中するように抑圧すること

 一部、扱いやすいように変換しておきました。意味のズレはないはずです。
   ※今回は3つにわけましたが、第2と第3とを一つにまとめて考えても問題ありません。

 さて、この3点の内容を確認すると、ほぼ同内容が繰り返されていることがわかりますか?
 (これくらいは自分で確認してください)

 3点がほぼ同内容だとすれば、どれに代表させるか。
 この場合は第2の「おびただしい剰余の眼がひとつの視点に注がれ」に着目しましょう。

 理由は何か?
 簡単です。前の段落に、このフレーズに対応する箇所があるのです。

 前の段落を再度引用しましょう。

 このように人間の生きた眼差しはこの世界の表面を軽やかに滑り、たえず運動をつづけており、なにかに見入ることによる視線の停止、非連続はあるかなきかの一瞬にすぎず、それが意識された瞬間には視線はすでに新たな運動を始めているのである。言葉をかえれば、そうした無用、無償の眼差し、おびただしい剰余の眼の動きに支えられて、われわれはこの現実とのたえざる連続を保ちながらこの世界のなかに生きつつあるのである。

 「おびただしい剰余の眼の動きに支えられて、われわれはこの現実とのたえざる連続を保ちながらこの世界のなかに生きつつあるのである。」


 この一文を組み替えて、「おびただしい剰余の眼(の動き)」を中心(主語)にして考えてみますと、「おびただしい剰余の眼の動き」は「われわれ」が「生きる」のに必要なもの、となりますね
  ※主語と述語を抜き取ると「われわれは……生きつつある」になります。それを応用しました。

 剰余の眼(の動き)があるから、われわれは生きられる。

 ということは、剰余の眼がなければ……生きられない、すなわち死ぬってことでしょうか?

 ここで最初に指摘しておいた「カメラのレンズ=見ることの死」が生きてきます

 まとめましょう。
 カメラのレンズは、私たちの「剰余の眼」を「ひとつの視点に注ぎ」込ませる「機能」があり、それは「見ることの死」を招き寄せる機能でもある、となりますね。
 これが含まれている選択肢こそが正解です。

 もちろん、正解は④です。

 今回は選択肢の読みは省略しました。選択肢が簡単だったからです。
 そのうち、ややこしいのが登場するでしょうから、選択肢の読み方はそのときにでも説明します。

 今日は問題文をよく読むことが、正解への第一歩であることを確認してください。

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