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今日の国語

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平成17年本試評論2

 今回から実際の問題を扱っていきます。平成17年度本試評論です。
 ポイントになるのは「対比」です。対比を確認しながら、課題文を読んでいきましょう。


 

対比の発見と応用                         

 カメラのレンズは人間の眼によって覗かれ、自由に操作されるかぎり、両者は同等に機能し、人間の眼のかわりをカメラのレンズが果たしていると思われがちだが、事実はきびしく相反する関係にあっただろう。人間の眼の機能を、見るという言葉で表現するのであれば、カメラのレンズのメカニックな機能は、見ることの死であると言わざるをえないほど、両者のあいだには測り知れない隔たり、深い断絶があったのである。

 はじめの段落です。すでに、この中に対比が潜んでいることに気付きましたか?
 対比になっているのは、「カメラのレンズ」と「人間の眼」です。それは最初の一文で確認されます。

 最初の一文は 文が複雑に入り組んでいますが、中心(=主文)となるのは、

  「(両者は)事実はきびしく相反する関係にあっただろう」

という部分です。「両者(=カメラのレンズと人間の眼)は、相反する」というのですから、まさしく対比です。


※国語が苦手という人は、ここでの文章省略のあり方にも注意しておいてください。
 基本は主語述語(+目的語)を抜き出しているだけです。

 「カメラのレンズ」と「人間の眼」とは、対比関係にあることを述べたあとで、同じ内容をもう一度くりかえします。それが次の「人間の眼の機能を……」の文です。主文「両者のあいだには測り知れない隔たり、深い断絶があったのである」が、「両者(=カメラのレンズと人間の眼)は、相反する」に対応していることは、言うまでもないことでしょう。

 ただし、単純に繰り返すのではなく、新たな「情報」を付け加えていますね。

  人間の眼……「見る」

  カメラのレンズ……「見ることの死」

 構造に注意しながら読み進めましょう。

 われわれの眼がものをみているとき、すでにそこにある現実、さまざまな事物や出来事を個別的に見ているのではなく、それらが連続する総体としての世界を見ているのである。従って人間の視線は一瞬たりとも運動を停止し、非連続の状態にとどまることはできない。一点に眼をこらし、見つめているようではあっても、それは次の瞬間に新たなる運動を起こすための一時的な、かりそめの休止符にすぎない。
 たしかに一枚の絵の前にたたずみ、じっと見入っていることがある。だがそのとき、われわれの眼は果たしてなにを見ているというのだろうか。おそらくなにかを見ているという意識はなく、絵の空間の拡がり、タブローの表面にただ視線を滑らせ、行きつもどりつしながら反復を繰り返しているのである。それが絵に見入っているときの言いようのない浮遊感であり、気づかぬうちに作品に魅せられていることの神秘さであるのだが、絵に心を奪われていることが意識された瞬間、そうした忘我的な陶酔はかき消え、単なる事物としてタブローがそこにあるだけである。
 このように人間の生きた眼差しはこの世界の表面を軽やかに滑り、たえず運動をつづけており、なにかに見入ることによる視線の停止、非連続はあるかなきかの一瞬にすぎず、それが意識された瞬間には視線はすでに新たな運動を始めているのである。言葉をかえれば、そうした無用、無償の眼差し、おびただしい剰余の眼の動きに支えられて、われわれはこの現実とのたえざる連続を保ちながらこの世界のなかに行きつつあるのである。

 対比をしっかりとおさえた上で、読み進めていくと、「われわれの眼が……」の段落は、「人間の眼」について論じていること、「たしかに一枚の絵の前に……」はその具体例、そして「このように人間の生きた眼差しは……」の段落は、「人間の眼」について、あらためて詳しく論じなおしたものであることが理解されえましょう。

 要するに、この3つの段落は、「人間の眼」について、詳しく論じているということです。
 逆に言えば、この3つの段落は「カメラのレンズ」には触れていない、ということでもあります。
 こうしたメリハリに意識を向けながら、読み進めていきましょう。

 国語が苦手な人は、特に評論文が何を言っているのか、さっぱりわからない、という人は、最初の一読では、細かい内容は保留して、漠然とでも全体構造に眼をむけるとよいと思います。必要になったら、戻って来ればよいのですから。

 それとはまさしく相反して、Aカメラのレンズをとおしてこの現実、この世界を見ることは、こうした人間の眼の無用な動きを否定し、おびただしい剰余の眼がひとつの視点に注がれ、集中するように抑圧することであった。

 問2の段落です。

 問題に入る前に確認しておきましょう。この段落は「それとはまさしく相反して」という始まりでもわかりますように、話が「カメラのレンズ」に移っています。
 作者は対比をうまく利用しながら、論を進めているのですね。

 今日は問題に入らず、ここまでとしましょう。
 今日、理解しておいてほしいのは、この課題文は以下の構造で論が進められているということです。

  ① 最初に対比構造(A B)を紹介しておく
  ② 次の段落(複数の段落)を用いて、片方(=A)を説明していく
  ③ 片方が終わったら、もう片方(=B)に移動して、説明を続けていく

 対比も段落レベルで展開されると、気をつけないと見落とすことがあります。要注意です。

 それと、A・Bが対比である以上、それぞれの説明の内容は、一応対応関係をもつ、ということも理解しておいてほしいのですが、そのあたりは、また後日お話しましょう。

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平成17年本試評論 本文

今日は平成17年本試評論を掲載しました
次回から解説に入ります



 カメラのレンズは人間の眼によって覗かれ、自由に操作されるかぎり、両者は同等に機能し、人間の眼のかわりをカメラのレンズが果たしていると思われがちだが、事実はきびしく相反する関係にあっただろう。人間の眼の機能を、見るという言葉で表現するのであれば、カメラのレンズのメカニックな機能は、見ることの死であると言わざるをえないほど、両者のあいだには測り知れない隔たり、深い断絶があったのである。

 われわれの眼がものをみているとき、すでにそこにある現実、さまざまな事物や出来事を個別的に見ているのではなく、それらが連続する総体としての世界を見ているのである。従って人間の視線は一瞬たりとも運動を停止し、非連続の状態にとどまることはできない。一点に眼をこらし、見つめているようではあっても、それは次の瞬間に新たなる運動を起こすための一時的な、かりそめの休止符にすぎない。
 たしかに一枚の絵の前にたたずみ、じっと見入っていることがある。だがそのとき、われわれの眼は果たしてなにを見ているというのだろうか。おそらくなにかを見ているという意識はなく、絵の空間の拡がり、タブローの表面にただ視線を滑らせ、行きつもどりつしながら反復を繰り返しているのである。それが絵に見入っているときの言いようのない浮遊感であり、気づかぬうちに作品に魅せられていることの神秘さであるのだが、絵に心を奪われていることが意識された瞬間、そうした忘我的な陶酔はかき消え、単なる事物としてタブローがそこにあるだけである。
 このように人間の生きた眼差しはこの世界の表面を軽やかに滑り、たえず運動をつづけており、なにかに見入ることによる視線の停止、非連続はあるかなきかの一瞬にすぎず、それが意識された瞬間には視線はすでに新たな運動を始めているのである。言葉をかえれば、そうした無用、無償の眼差し、おびただしい剰余の眼の動きに支えられて、われわれはこの現実とのたえざる連続を保ちながらこの世界のなかに行きつつあるのである。
 それとはまさしく相反して、Aカメラのレンズをとおしてこの現実、この世界を見ることは、こうした人間の眼の無用な動きを否定し、おびただしい剰余の眼がひとつの視点に注がれ、集中するように抑圧することであった。
 限りなく拡がる世界の空間から特定されたひとつの被写体を選び、画面に切り取り、それ以外の空間は存在しないかのように排除し、無視することを求める映画の映像は、人間の生きた眼が無意識のうちに呼吸するリズム、その無用な遊びを禁じるようなものであっただろう。しかも映画はそれに見入っているわれわれの時間といったものにまで介入し、きびしく制限を加えることによって見ることの死を宣言するに等しかったのである。
 同じカメラによる表現でありながら、一枚の写真と映画とを対比するならば、動く映像としての映画のありよう、その暴虐ぶりがより鮮明になるに違いない。現実にそこにあるものを映し出すかぎり、映画の映像と写真はともに複製の表現であり、現実をイメージによって捉え、抽象化する絵画とは異なると思われがちだが、それを見るという行為の側に立つならば、B写真と絵画は全く同質のものであっただろう。一枚の写真もまた絵のタブローと同じように見ているのであり、おびただしい剰余の眼差しに支えられて、いまわれわれはまぎれもなくその写真、その絵をみていることに気づくのである。
 だが映画はそうした眼差しの無用さ、無償性を許そうとはせず、あくまで特定の視点を強要し、さらにわれわれがそれに見入っている時間に至るまできびしく制限しようとする、独占的なメディアと言うべきではなかっただろうか。
 かつて映画は時間の芸術という美しい名前で呼ばれた時代があった。しかもそれは時間とスピードに魅せられ、幻惑された二十世紀を象徴する言葉でもあっただろう。映画はそのフィルムのひと齣、ひと齣が、一秒間に二十四齣という眼にはとまらぬ速度で動くことによって、網膜に残像がしるしづけられ、われわれはそれを連続する映像として見るのである。そのかぎりでは映像のひと齣、ひと齣に加えられた速度、時間を停止してしまえば、映し出されているものは一枚の写真とかわらず、絵のタブローと同様にわれわれの眼が自由にそれを見ることができるはずである。
 従ってC映画が映画であるのは、この速度を産み出す時間に依存しているのであり、それはフィルムのひと齣、ひと齣の動きのみならず、一時間、あるいは二時間と連続して映写される時間の流れを誰もが疑わず、停止しようとはしなかったからであった。そして息つく間もないスピードの表現であることが、わずか二時間たらずのあいだに人間の一生を描くことができた理由であり、神による天地創造の神話から一億光年の彼方の宇宙の物語まで映画は語りえたのである。
 しかしながら映画を見るという行為は、一瞬たりとも休むことのない時間の速度にとらわれ、その奴隷と化することでもあった。静止して動くことのない絵画や写真の場合は、さまざまな視点から自由に眺めながら、みずからの内面でゆっくりと対話することもできるだろう。だが映画は一方通行的に早い速度で流れる時間に圧倒されて、ついにはひとつの意味しか見出せない危険な表現であり、二十世紀の国家権力やコマーシャリズムが濫用し、悪用したのも、こうした映画における見ることの死であったのである。
 それにしても小津さんは新たなメディアとしての映画が持ちあわせた特権、その魅力をことごとく否定する。まさしく反映画の人であったと言うほかはない。カメラのレンズをとおして現実を切り取り、それを映像化することが世界の秩序を乱すと懸念する小津さんであれば、われわれの無用な、無償の眼差しを許そうとしない映画の独占的な支配を受け入れるはずもなかった。ましてや反復とずれによって気づかぬうちに移ろいゆくのが小津さんが感じる時間とその流れであり、二時間たらずの映画の上映で人間の一生が語りつくされたり、一億光年の宇宙の果てまで旅するような時間の超スピードぶりは、われわれの眼を欺くまやかしでしかなかった。
 だが小津さんは映画表現のありようにまさしく反抗しながら、それにもかかわらず限りなく映画を愛するという矛盾をみごとに生きぬいた人でもあった。そんためには映画のまやかしと戯れつづけ、共棲しまうといった、あの小津さんらしい諧謔ぶりがおのずから求められたのである。
 トーキー映画である『一人息子』にしても、科白や音響効果によって映画がいっそう表現力を高め、迫真性が加わることを嫌い、あえて意味が曖昧なままに浮遊する映像を、トーキー映画への戯れとして小津さんは試みたに違いない。事実、場末のゴミ処理場を望む野原に座って語りあう母親と息子のシーンは、たしかに科白は聴こえながら、対話しあっているとは思えないようにモンタージュされており、その視線もまたたがいに宙に漂い、すれ違うようにしてあてもなく拡散していく。従って母親と息子とが親しく語りあうことがドラマでありながら、画面に映し出されている俳優の姿かたち、人間としての存在のありようのほうが否応なく、よりくっきりと浮き彫りにされ、映画の筋立てとはかかわりなく、われわれの無用の眼差しによってそれは見られてしまうのである。
 おそらく小津さんがひそかに心に描いていたのは、D「見せる」ことよりも、われわれの無用、無償の眼差しによって「見られる」映像を試みることにあったのではないだろうか。映画にたずさわる人間であれば誰しもが、その表現の一方通行的である優位さを過信して、観客に映像を「見せる」ことに腐心するのだろうが、小津さんにかぎっては「見せる」ことよりも、観客によって「見られる」、あるいは「見返される」映像を実現するために心を砕いたのである。

 

問2 傍線部「カメラのレンズをとおしてこの現実、この世界を見ること」とあるが、「カメラのレンズ」の機能の説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。

①カメラのレンズは、現実のさまざまな事物や出来事を、個別的にではなく連続的に写し取る。
②カメラのレンズは、現実のなかから被写体を選び出し、そのありのままの姿を正確に写し取る。 
③カメラのレンズは、無限の現実から特定の対象を切り取ることにより、現実の世界を否定する。
④カメラのレンズは、連続する世界のなかから特定の部分を写し取り、それ以外の部分を排除する。
⑤カメラのレンズは、人間の手で自由に操作されるかぎりにおいて、人間の眼と同等の能力を持つ。


問3 傍線部「写真と絵画はまったく同質のものであっただろう」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。

①動く映像としての映画のあり方と対比すれば明らかであるが、写真と絵画は現実に流れている時間を静止させて複製しているという点で、見る者からすれば同じ性質であるということ。
②写真に写された世界はカメラによって切り取られ限定されているが、絵画も画家の眼により世界の一部がきりとられて画面に再現されている点で、同様に限定的なものであるということ。
③絵画を見るときの私たちの眼は一点を見つめているようであっても常に動きつづけているが、写真を見るときの私たちの視線もその上を浮遊し、自由に運動しつづけるものだということ。
④レンズでとらえた写真と画家の肉眼がとらえた絵画とは異質な点もあるが、どちらも奥行きのない平面における表現であり、私たちの視線はそれらの表面を漂うしかないということ。
⑤画家によって描かれる絵画と機会によって撮影される写真とは異質なものと思われがちだが、現実を何らかの媒介物に転写したものであるという点で、両者は同様であるということ。


問4 傍線部「映画が映画であるのは、この速度を産み出す時間に依存している」とあるが、筆者は「映画」が「時間に依存している」ことでどのような結果が生じたと考えているか。その説明として最も適当なmのを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。

①映画は、人間の一生をわずか二時間たらずで映し出すことを可能にしたが、観客をひきつける動く映像の迫真性によって、国家権力やコマーシャリズムに利用されてしまうという結果になった。
②映画は、一秒間に二十四齣というフィルムの映写速度で観客の眼差しを支配し、神話などの虚構まで表現することを可能にしたが、そうした錯覚によるまやかしは見ることの死をもたらした。
③映画は、限られた時間のなかで壮大な時空間を描き出すようなことを可能にしたが、映画に見入っている時間をきびしく制限しようとすることで、観客の眼差しを抑圧してしまうことになった。
④映画は、息つく間もないスピード感に満ちた物語や広大な宇宙の物語を表現することをも可能にしtが、ゆるやかに移ろいゆく時間を、反復とずれによって表現することが不可能になった。
⑤映画は、画像が連続する新しい芸術として発展したが、ひとたびその速度に慣らされてしまった観客には、絵画や写真のように静止した画像と内面でゆっくりと対話することが困難になった。


問5 傍線部「「見せる」ことよりも、われわれの無用、無償の眼差しによって「見られる」映像を試みることにあった」とあるが、どういうことか。

①スピード感を持たせた編集によって観客に一方通行的に映像を見せるのではなく、ゆるやかなテンポを持たせた編集によって、観客が余裕を持って画面の細部まで見ることができるような映像を試みること。
②時間の流れに従属させることで観客の視線を限定するような映像を見せるのではなく、観客それぞれの自由な見方に任せることによって、単一の意味で受けとられてしまわないような映像を試みること。
③特定の視点から撮影することでそれ以外の空間が存在しないかのような映像を見せるのではなく、人間の眼がさまざまな空間を自由に見ることができるのと同様に、多様な角度からの映像を試みること。
④作り手の表現意図の伝達を目的としてすべての観客が同じ意味に到達するような映像を見せるのではなく、さまざまな意味合いを含んだ複雑な内容によって、個々の観客が自由に解釈できる映像を試みること。
⑤フィルムのひと齣ひと齣を連続して映写することで観客の視線をくぎ付けにする映像を見せるのではなく、画面に映し出されていない場所やその舞台裏についても、観客が想像力を発揮できる映像を試みること。

 

問6 本文の内容に最もよく合致するものを、次の①~⑤のうちからひとつ選べ。
①ひとつの意味を強調するという性質ゆえ、映画は国家権力やコマーシャリズムに悪用されるに至ったが、そのような事態に対して、小津安二郎の映画は、戯れや諧謔に満ちた自由な筋立てによって抵抗している。
②長大な時間の中で起こるできごとを二時間程度で表現できる点で、映画は日常的な時間の制約から自由な芸術であるが、小津安二郎の映画は、そのような自由を否定し、現実の時間の流れに従うように作られている。
③絵画や写真を鑑賞する場合と比べれば明らかなように、映画は観客の眼の運動を制限してただひとつの筋立てに従わせようとするが、小津安二郎の映画は、そのような制限を取払い、筋立てが複数化されている。
④カメラのレンズは比べて自由であるはずの眼の運動を制限することによって、映画は観客に特定の視点を強制するが、小津安二郎の映画は、そのような強制をまぬがれた見方を観客ができるように作られている。
⑤一方通行に早い速度で流れる時間を強いることで、映画は観客を独占的に支配するという一般的性質を持っているが、小津安二郎の映画は、そのような特質を徹底することで、かえって映画の限界を突破している。

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