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芥川⑨ 已然形+ば

芥川⑨「已然形+ば」

 

 しばらく間があいてしましました。

 時々、こういうこともあります。どうかご了承ください。

 

 さてさて、芥川、といいながら、今回は(も?)本文には全然触れません。今日は、「已然形+ば」の話です。

 

 まずは前回の復習ですが、「ば」の用法には「未然形+ば」と「已然形+ば」の二種類がありました。

この両者はもちろん意味が異なるため、訳し方も変わります。そのニュアンスだけを、もう一度紹介しておくと、以下のとおり。

 

「未然形+ば」→(まだそうなってはいないんだけどさ)というのが前提にある

「已然形+ば」→(もうそうなっているんだけどさ)というのが前提にある

 

 今回扱うのは、「已然形+ば」なんですが、これ、「未然形+ば」に比べると、ほんの少々、クセがあるんですね。

 というのは、「未然形+ば」は「まだそうなってはいない」が前提の用法です。

 まだそうなっていない、ということは、そうなっていないことをわざわざ持ち出すんですから、当然、「たら、れば」の話になる、すなわち「仮定」になってしまい、それで終わり。

 だから「未然形+ば」は仮定の用法しかないわけなんですね。

 ところが、「已然形+ば」は、そう簡単にはいきません。なんせ、「事件」はおこってしまっているのですから。

 「事件」に対応する方法は、大きくいって2つ。「それ」と関係するのか、しないのか、です。

 

A 順接の確定条件

(もうそうなっているんだけどさ)、だから……

 →「そうなっている」ことをきちんと受け止めて、それを理由に次にいくパターンですね。

 「そうなっていること」が理由、「だから」以降が結果。訳し方は「~ので」となります。

 ちなみに、この「~ので」の訳し方は「順接の確定条件」と呼ばれているのは、おそらく「未然形+ば」が「仮定」条件だったので、仮定に対応させて「確定」としたんでしょうけど(ちがうのかな)、もしそうだとすれば、もう少し命名に工夫が欲しかった、と思うのは私だけでしょうか?そのまんま「因果関係」でいいと思うんだけどな。

 ま、名称はさておき、例文をみておきましょう。

 

①京には見えぬ鳥なれば、皆人見知らず(伊勢物語09)

  →都では見かけない鳥であるので、(そこにいる人は)みんな見知らない。(数研出版「体系古典文法」)

②あしくさぐれば、なきなり。(竹取物語)

  →下手に探すから、ないのだ。(尚文出版「これからの古典文法」) 

③いと幼ければ、籠(こ)に入れて養ふ(竹取物語)

  →たいそう小さいので、籠にいれて育てる

④事に触れて数しらず苦しきことのみまされば、いといたう思ひわびたるを(源氏・桐壺)

  →何かにつけて数えきれないほどたくさんつらいことばかりが重なるので、たいそう思い悩んでいるのを

(文英堂「全解古語辞典」)

⑤京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。(伊勢9)

  →京都では見ることのできない鳥であるので、その場にいる人全員が(なんという鳥であるのか)見てもわからない。

(「ベネッセ全訳古語辞典」)

ちなみに、問題にされやすいのはこのパターンです。

 

 

B 偶然条件(偶発条件)

(もうそうなっているんだけどさ)、それはそうとして、そうなってみると、

 →「そうなっている」ことを、さらりと流して終わり。「そうなっている」ことを理由としないパターン。 

 用語としては「偶発条件」(尚文出版)とか「偶然条件」(数研出版)とかいいますが、これもどうなのかな~。偶発とか偶然とかいうと、どうしても「たまたまそうなっちゃった」というニュアンスがでて、これが「已然形+ば」とどう絡むのか、わかりにくいもんね。何とか表現しなきゃいけないから、こうなったのだろうけど、要するに因果関係はない、ということです。もうちょっと突っ込んでおくと、現代語で「(ちょっと)横をみてみれば、先生がそこにいた」という文があったとするでしょ。これ、「(ちょっと)横を見てみると」としても別に問題はありませんよね(細かいニュアンスの相違はあるだろうけど)。少なくとも「(ちょっと)横を見てみたので、先生がそこにいた」と置き換えることはできませんよね。横を見たせいで先生が登場するなんて……。先生は化け物か何かですか、という話になる。なんせ湧いて出てきている訳ですから(笑)。

 さてさてわかります?この違い。前者が偶然条件で、後者が順接の確定条件なわけですよ。以下、例文をあげておきます。

 

⑥それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり(竹取物語)

  →それを見ると、三寸(10センチ)ぐらいの人が、とてもかわいらしい様子ですわっていた。

(数研出版「体系古典文法」偶然条件)

⑦帰りたければ、ひとりついたちて行きけり。(徒然草60)

  →帰りたくなると、ひとりぷいと立って行った。

    ※これ、「帰りたいので」と訳したくなりますよね。

(尚文出版「これからの古典文法」偶発条件)

⑧筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり(竹取物語)

  →筒の中が光っている。それを見ると、三寸ほどである人が、たいそうかわいらしい様子で座っている

(文英堂「全解古語辞典」偶然のきっかけ・契機)

⑨それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり(竹取物語)

  →それ(竹の中)をみると、(身長が)三寸ほどである人が、とてもかわいらしい様子で座っている

※「上一段動詞「見る」の已然形に付いている例。そこを見たらたまたま人が座っていた、という意味で、「ば」の前の句と後の句には因果関係はない。このような接続の条件を「偶然的条件」ともいう。」

(「ベネッセ全訳古語辞典」)

 

C 恒時条件(恒常条件)(……といつも/……と必ず)

⑩瓜食(は)めば子供思ほゆ栗食めばまして偲はゆ(万葉集5)  

  →瓜を食べるといつも子供のことが思われる。栗を食べるといつもいっそうしのばれる。

(数研出版「体系古典文法」)

⑪財(たから)多ければ、身を守るにまどし。(徒然草38)

  →財産が多いと必ず、身を守るのに不十分となる。

(尚文出版「これからの古典文法」恒時条件(恒常条件))

⑫家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(万葉2・142有馬皇子)

  →家にいるといつも器に盛る飯を、旅にあるので椎の葉に盛る

※「謀反の嫌疑を受け、審問のため紀伊へ護送された有馬皇子はその帰途、殺されてしまう。その護送の途中で詠んだ歌。歌の内容は旅にあって我が家を懐かしんだものであるが、死を直前にするという事態から、日常的な事柄もかけがえのないものとなっている。「草枕」は枕詞。」

⑬命長ければ、恥多し(徒然草7)

(文英堂「全解古語辞典」順接の一般的・恒常的な条件関係を表すの項目)

⑭作り据ゑたる酒壷に、差し渡したる直柄(ひたえ)のひさごの、南風吹けば北になびき、北風ふけば南になびき……(更級日記・竹芝寺)

※「四段動詞「吹く」の已然形に付いている例。ある条件のもとではいつも決まって、後に述べる結果になることを表す用法。」

(「ベネッセ全訳古語辞典」順接の恒常的条件)

 

 大体この3つを覚えておくと、大丈夫と思います。細かいこといいだすとキリがありませんしね(笑)。

 それにしても、この3番目の「恒時条件」というのが、面倒くさいんですよね。例えば⑪の場合、

   →財産が多いので、身を守るのに不十分となる

でも、いいように思いません?⑬もそうですね。

   →命が長いので、恥が多い

これもよさそうに見えません?

 で、実は文法だけに拘れば、これはこれでOKです。じゃ、なんでそうしないのか?

 理由は簡単です。この訳では、本文に戻した時にうまくいかないから。つまり、「文脈上の問題」で訳が決定されるんですね。

 じゃ、折角訳しても、本文に戻して確認しなければ、これでいいのかどうか、わかんないってことなの?

 はい、その通りです。面倒かもしれませんが、最後は文章に戻して、この訳でいいのか考える。これも語学の一環ということでご理解くださいね。

 この項目、一応終了ということで、次から本文に戻ります。

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芥川⑧「未然形+ば」説明

芥川といふ河を率て行きければ、草の上に置きたりける露を、
「かれは何ぞ」
 となむ男に問ひける。
 
 今日は、いよいよ「ば」の話です。「ば」だけです。やっぱり話は進みません。
 
 さてさて、「ば」についてです。古文を勉強する上で、ここは非常に重要です。
 なぜ重要なのか、ですって?
 現段階では、そのへんに頭を使うのはやめましょう。
 重要なものは重要といいますので、「ああ、重要なのね」と思っといてください。
 それでは。
 
 「ば」が問題となるとき、それは必ず「ば」の前にある単語(用言)を含めて問題となります。
 具体的に言うと、「ば」の前が「未然形」なのか「已然形」なのか、ということで、問題となるのです。
 これ次第で、文の意味が変わってきます。
 
 では「未然形」とは何か?「已然形」とは何か?
 ここから話を始めましょう。
 
 未然形、已然形とは活用の形ですね。普通はそこで終わるのかもしれませんが、この文字面をよく見てください。「未然」と「已然」と、形は似ていますよね。漢文が得意な人は、もうお分かりかもしれません。書き下し(訓読)してみましょう。
 
未然→未だ然らず(いまだ しからず)=まだ、そうじゃない
已然→已に然り(すでに しかり)=もうすでに、そうだ(そうなっている)
 
 なんのことはない、未然と已然とは、「まだ」と「もう」という具合に、意味が正反対なんですね。
 だから、未然形は「まだ」のニュアンスがあり、已然形には「もう」のニュアンスがあるわけです。
 誰が「未然形」「已然形」と命名したのか知りませんが、よくできてますね。
 
 前述のとおり、「ば」の用例は2種類あります。
 ひとつは「未然形+ば」、もうひとつは「已然形+ば」です。
 この2つは訳し方が違うのですが、どう違うかというと、「未然形+ば」は「まだ」のニュアンスをもっており、「已然形+ば」は「もう」のニュアンスを持っているのです。すなわち……
 
「未然形+ば」→(まだそうなってはいないんだけどさ)というのが前提にある
「已然形+ば」→(もうそうなっているんだけどさ)というのが前提にある
 
 これが、「ば」の問題を考える上での、全ての根幹になります。
 簡単な方からやりましょう。「未然形+ば」からですね。例文を見ながら説明しましょう。
 先日アップした資料です。
 
①悪人のまねとて人を殺さば、悪人なり(徒然草85)
 
 「ば」の前に「悪人のまねとて人を殺さ」とありますね。
 ポイントになるのは、「ば」の直前、「人を殺さ」の部分。「殺さ」は四段動詞「殺す」の未然形。
 未然形ですから「まだ」のニュアンスがあるはずですね。
 つまり、「まだ殺してないけどさ」という意味。
 これをもう少し発展させたのが、「未然形+ば」なんです。
 つまり、「まだ殺してないけどさ、もし殺したとすればだよ、……」となるのが「未然形+ば」なんです。
 もう少し突き詰めておくと、「まだそうなってはいないけどさ、もし、そうなったらだよ」というのが「未然形+ば」の訳し方で、こういう訳し方を「仮定条件」といいます。「仮定」とは「もし、そうならば」という言い方のことですね。
 
 訳です。
  →悪人のまねだといって人を殺すならば、(それは)悪人である。(数研出版「体系古典文法」)
 
 あとは同じ要領ですね。
 
②宮仕へに出だし立てば、死ぬべし。(竹取物語)
 「出だし立つ」という言い方が面倒ですが、ここでは「出す」の意味です。ですから「まだ宮仕えに出していないけどさ、もし出すとすればだよ」というニュアンスが前半部にあることになりますね。
  →宮仕えに出すならば、死ぬつもりだ。(尚文出版「これからの古典文法」)
 
③折りとらば惜しげにもあるか桜花いざやど借りて散るまでは見ん(古今/春上)
 「折りとらば」=「まだ折りとってはいないけど、もし折りとるとすればさ……」
  →もし折取ったらいかにも惜しいなあ。桜の花をさあ宿をとって散るまでみよう。(文英堂「全解古語辞典」)
 
④都にあるならば、またうきめをもみむずらん(平家1・祇王)
 ここでは主語が提示されていないので訳しにくいですが、主語は人です。
 「都にあるならば」=「まだ都にいるわけではないが、もし都にいたら……」
  →こうして都にいたら、またつらいめをもみるだろう(文英堂「全解古語辞典」)
 
おわかりでしょうか?
あとは例文と訳だけ出しておきますね。
 
⑤ただ今、行方なく飛び失せなば、いかが思ふべき(更級日記・大納言殿の姫君)
→たった今、(私が)行く先も知れず飛んでいなくなってしまったら、(あなたは)どう思うつもりなのか
ベネッセ「全訳古語辞典」
 
⑥道長が家より帝、后立ちたまふべきものならば、この矢当たれ(大鏡・道長上)
→(この私)道長の家から天皇や、皇后の位にお就きになる(人物が出る)はずのものであるならば、この矢が命中しろ(ベネッセ「全訳古語辞典」)
 
あしたは、ややこしい(=めんどくさい)「已然形+ば」を説明しましょう。
 
 
 
 

芥川⑦(未然形+ば)

調べものしてたら、更新する時間がなくなってしまいました……。
今日も調べものの真っ最中。まだ途中なので書くに書けないのですが、途中経過ということで、少しは書いておきましょう(笑)
 
芥川といふ河を率て行きければ、草の上に置きたりける露を、
「かれは何ぞ」
 となむ男に問ひける。
 
 調べていたのは、「行きければ」の「」。これが奥が深い!!
 簡単に説明しておきますと「ば」の用法は2つです。
 「未然形+ば」と「已然形+ば」ですね。

 
 「未然形+ば」は仮定条件と呼ばれ、「(まだそうじゃないんだけど、もしそう)ならば」という具合に訳します。
 「具合に」なんて曖昧な表現をしているのは、場合に応じて言葉を選ぶ必要があるからですね。
 で、用例ですが、これにはまってしまいました。並べてみましょう。
 
①悪人のまねとて人を殺さば、悪人なり(徒然草85)
  →悪人のまねだといって人を殺すならば、(それは)悪人である。
(以上、数研出版「体系古典文法」)
②宮仕へに出だし立てば、死ぬべし。(竹取物語)
  →宮仕えに出すならば、死ぬつもりだ。
(以上 尚文出版「これからの古典文法」) 
③折りとらば惜しげにもあるか桜花いざやど借りて散るまでは見ん(古今/春上)
  →もし折取ったらいかにも惜しいなあ。桜の花をさあ宿をとって散るまでみよう。
④都にあるならば、またうきめをもみむずらん(平家1・祇王)
  →こうして都にいたら、またつらいめをもみるだろう
(以上 文英堂「全解古語辞典」)
⑤ただ今、行方なく飛び失せなば、いかが思ふべき(更級日記・大納言殿の姫君)
  →たった今、(私が)行く先も知れず飛んでいなくなってしまったら、(あなたは)どう思うつもりなのか
⑥道長が家より帝、后立ちたまふべきものならば、この矢当たれ(大鏡・道長上)
  →(この私)道長の家から天皇や、皇后の位にお就きになる(人物が出る)はずのものであるならば、この矢が命中しろ
以上「ベネッセ全訳古語辞典」
 
 いや、でるわでるわ、何が面白いって、辞書・参考書で例文が見事に重ならないんですね。
 これって偶然なんですかね?
 
 で、「已然形+ば」は明日。も少し調べさせてください。
 

芥川⑥

芥川といふ河を率て行きければ、草の上に置きたりける露を、
「かれは何ぞ」
 となむ男に問ひける。
 
 続きです。
 相変わらず進みません
 今日は「芥川といふ河を率て行きければ」だけです。
 
 さていきましょうか。
 「芥川」は、とりあえず地名。大阪府高槻市に芥川という川があります。
 高槻の位置は……そうですねぇ、大阪(梅田)と京都(河原町)とを結ぶ私鉄に「阪急電鉄(京都線)」というのがあるんですが、それでいえば、ちょうど真ん中ぐらいといっていいんじゃないですかねぇ。
 高槻と京都とは結構な距離があります。
 それと、芥川は「芥」というのが「ごみ」という意味があるので、京にあるゴミを流すための川という説もあります。
 どっちが正しいか?その考察は後で行います。次です。
 
 「芥川といふ河を率て行きければ」ですが、「河を」「率て行く」って、どういうことなんでしょうね?
 「率て行く」が「つれていく」という意味なのは、間違いないでしょう。後で「率て来し女もなし」っていうフレーズが登場しますが、この「率て」って「つれて」という意味ですから。
 じゃ「河をつれていく」って何?「河に女をつれていく」なら、わかるんですがね
 考えられるのは4パターンですかね。
 
 ①もともと、そういう用例があった(私が知らないだけ)。
 ②「伊勢物語」成立時にいい間違えた、あるいは書き間違えた(成立時のミス)。
 ③どこかで誤写があった(伝承中のミス)。
 ④その他(上記の複合技とか……なんだろう?)
 
 どれでしょうかね……。ま、いいや。こっからさきは、専門の研究者にお任せです。
 ここでは、どっかでミスったんだろうね、ということで「河に女をつれていく」の誤りぐらいにしときます(笑)。
 次です。
 「ば」が出て来てますね〜。
 これは腰を据えてかからないといけません。
 明日にまわします。
 
 今日はここまで。
 
 
 

芥川⑤

 理屈は進んだのに、内容が全くすすみません(苦笑)。
 ご了解ください。
 
 むかし、男ありけり。女の、え得(う)まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、辛うじて盗み出でて、いと暗きに来けり。芥川といふ河を率て行きければ、草の上に置きたりける露を、
「かれは何ぞ」
 となむ男に問ひける。
 
 話がややこしくなったのは、そもそも「女の、え得(う)まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを」というフレーズのせいでした。しかし、その問題もようやく片付き、
  
 手に入りそうにない女を、(そして)長年、求婚し続けていた(その女)を、盗み……
 
とすることとなりました。やれやれ。
 次です。
 
 「辛うじて」は、「かろうじて」で、現代語にもあるので省略。
 「盗み出でて」は「盗み出す」とも訳せますし、「盗んで出てきた」とも訳せます。「出づ(いづ)」が他動詞「出す」でもあれば、自動詞「出る」でもあるためで、この場合はどっちでもよろしい。
 訳本を見る限りでは、「盗み出す」の方が多いようです。
 おそらく、「女を」という目的語があるため「盗み」は他動詞、「出づ」は「盗み」と連続して一句となっていますので、同じく他動詞と解釈されているのでしょうね。
 私も、「盗み出す」の方がいいと思います(「女を盗んで出て来た」と訳すのも悪くないとは思いますが)。
 「いと暗きに来けり」は「暗き」が問題。形容詞「暗し」の連体形で「暗い〜」の意ですが、暗い何なんでしょう?考えられるのは、「暗い時間に」か「暗い所に」か、どちらかでしょうね。さてどっち?
 この問題を考える上で、筑摩が面白いヒントを与えてくれています。
 
 「月も星もない闇夜である。男はこの暗さに乗じてひた走るのだが、闇夜は鬼の出現の条件でもある。」
 
 なるほど、この「暗き」は「鬼」出現のための伏線だった、というわけですね。この指摘は面白いですね。
 この指摘を受けて「暗き」を考えてみると、要するに「暗き」とは「闇」を示しているのであって、「闇」を示すんなら「暗い時間(=闇夜)」でも「暗い所(=闇夜の空間)」でもあんまり関係ない、となりますね(電灯がない平安時代、「闇夜」はどこもかしこも「まっくら」ですから)。
 じゃ、「暗き」は「闇夜」でいきましょう。
 「来けり」は冷静に考えれば、何かへん。女を盗み出して、「やってきた」って、どこに?普通は女を盗み出して「行ってしまった」じゃないの?
 次の文には「芥川といふ河を率て行きければ」とあり、男のやってきた場所が「芥川」と明示されています。
 でもこれもなんかヘン。なんで、このタイミングで「芥川」なの?
 現代人として考えてみると、普通、「かろうじて盗み出して、深い闇夜の中を芥川までやってきた」となるんじゃないのかな?
 そう思いません?
 この辺の細かい矛盾が、古文のやな所でもあり、面白いところでもあるんですよね(苦笑)。
 
 さてさて、ではこれはどうしましょうか?
 私は、「来けり」は物語の舞台にやってきたんだろうな、と半ば自暴自棄的に解釈しています。
 役者が舞台に登場してくるイメージ?
 「男がやってきてみると、そこは芥川であった」って感じ?
 言い方が、なんかぐちゃぐちゃになってる。そう考えてることにしました(いいのか……(笑))。
 
 →深い闇夜の中をやってきた。
 
 とりあえず、こうしときます。

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