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今日の国語

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芥川14

歌をわすれてました……歌物語なのに


白玉か何ぞと人の問ひしときつゆと答へて消えなましものを


 旺文社「全訳古語辞典」によれば「白玉」は真珠とのこと。でも岩波古典文学大系では「あの人があれは白玉か何かでしょうかと……」と「白玉」を「白玉」そのまんまで訳してます。ここでは真珠にしておきましょう。

 「何ぞ」とは「何なんだ?」ということ。「白玉か」とあわせれば、「(それは)真珠ですか?一体何なのでしょう?」となります。

 「消えなましものを」の「まし」は反実仮想、英語でいうところの仮定法です。「……すればよかったのに」と訳します。ちなみに「消えなましものを」の「な」は完了「ぬ」の未然形です。訳は「消えてしまえばよかったものを」となります。

 あと、この歌では「縁語」が指摘されえます。具体的にいえば、ここでは「露」と「消ゆ」が縁語です。では「縁語」って何?

 ベネッセ「全訳古語辞典」では、「主として和歌の修辞技巧のひとつ。一首の歌の中のあることばと、意味や音声の上で密接に関連することば」とあります。う~ん……。

 この説明だけだとわかりにくいかもしれませんので、捕捉説明。まず縁語というのは、何らかの特徴のある単語ひとつの性質を示すものではありません。2つ以上の単語の関係を示したものです。

 詳しく説明しておきましょう。縁語の前提として、最初に言葉のグループ分けがあるんです。そしてそのグループ分けは歌とは無関係に成立しています。「露」は「消える」ものですから、「露」と「消ゆ」は同一グループとみなされます。この同一グループに属する単語が一つの歌に登場した時、それらの単語は「縁語」と呼ばれるのです。この場合は「露」と「消ゆ」が縁語になります。わかります?

 面倒なのは、この縁語の全体像がどうにも見えにくいことです。グループ分けがどうにも見えにくくて、全体像がとらえにくい。一体何と何とが、同一グループになっているのか、わからない。ベネッセは具体例を示しているので、いくつか引用しておきますと、〔岩ー苔〕〔霧ー晴る〕〔涙ー流る・水〕などとあります。そして露も示されていますが〔露ー秋・命・置く・葉〕とされており、「消ゆ」がない。曖昧ですね。

私が〔露ー消ゆ〕が縁語といっているのも、どの資料もここが縁語といっているからですしね~(納得はしていますが)。

 

 ま、縁語はこれくらいにして訳しておきましょう。

 

「(あれは)露ですか?何なのでしょうか?」とあなたが尋ねたとき、「露ですよ」と答えて(露のように)消えてしまえば(死んでしまえば)よかったものを……。

 

 ひとり取り残されたのが悔しくて悲しくて、もうどうしようもない。やはり男は死ぬほど苦しんでいるのですね。

 

 この歌については、もう少し解説しておくべきことがあるので、続きます。

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芥川13

やうやう夜も明けゆくに、 見れば率て来し女もなし。足ずりをして泣けども、かひなし。

  白玉か何ぞと人の問ひしときつゆと答へて消えなましものを

 

 「やうやう夜も明けゆくに」とは、「やうやう」は普通は「徐々に」「しだいに」と訳されます。有名なところでは、「枕草子」第1段ですね。

 「春は曙。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。」

 「ベネッセ全訳古語辞典」から訳を引用しておきます。

 「春は夜がほのぼのと明けようとするころ(がよい)。しだいに白くなっていく山際の空が、少し明るくなって、紫がかっている雲が細く横になびいているのは(趣深い)。」

 これは「しだいに」でよいでしょう。

 でも、芥川のここでは「しだいに」よりも「やっとのことで」「どうにか」と訳すのがよいでしょう。前に「はや夜も明けなむと思ひつつゐたりけるに」とありましたね。男は「早く夜が明けてくれ」と願っているわけです。これを受けて、「やっとのことで」とくるわけです。

 「やうやう」に「やっとのことで」の訳があるのか?あります。例文を引用しておきます。旺文社「古語辞典」からです。

 やうやうとして、穴の口までは出でたれども、え出でずして、たへかたきことかぎりなし(宇治171)((僧は)やっとのことで、穴の口までは出たけれども、(外へは)出ることができないので、苦しいことはこの上ない)

 ちなみに、ベネッセの「全訳古語辞典」も同じ文を引用しています。

 ここの訳は「やっとのことで夜も明けてゆくのだが」となります。「に」は逆説でとりました。理由は後述します。

見れば率て来し女もなし」は「已然形+ば」が使われていますね。ここは偶発条件「~すると」で訳します。訳は「見ると、連れてきた女もいない」となります。なぜ「女も」であり、「女が」でないのか?理由はわかりません。もしかすると原文は「率て来し女なし」だったかもしれません。それが時代が下るにつれ、テキストが乱れて「女も」になったのかもしれません。でもあえてテキスト問題を無視して深読みしておくと、(雷が騒がしい夜で何事も無いように男は願っていたはずです。そして夜が明けた。何事も無かったのです。でも無かったのは事件だけではありませんでした。女の姿もなかったのです。)と、こう解釈しておくと、「女も」と「も」が使用されている理由が一応説明できます。正しいかどうかはわかりません。テキストを確認していけばよいのでしょうが、今回はそこまではやりません。

 「に」を逆説に解釈した理由ですが、これも男の願いを中心に考えての判断です。男は何事も無いように願っていました。そしてそれはかなえられました。ようやく夜があけたのです。しかし肝腎の願いは果たされませんでした。その願いとは、女を守りきることです。男は女を守ろうとして、あばら屋に女を押し込めたのです。でも守りきれなかった。これがこの場面の状況です。すなわち前半部「やうやう夜も明けゆく」は男の願いがひとつかなえられたことを示します。そして後半部「見れば率て来し女もなし」は男の願いがかなえられなかったことを示します。このように男の願いを中心に整理しなおしてみると、前半と後半とが逆になっていると判断されるので、「に」を逆説と解釈したのです。

足ずりをして泣けども、かひなし」とは、「かひなし」は「どうしようもない」ということ。最重要単語のひとつです。絶対に覚えておきましょう。「足ずりをして」ですが、一般には「地団駄を踏む」と訳されます。ベネッセ「全訳古語辞典」は「足を大地に踏みつけばたばたさせて、激しい怒りや悔しさを表すこと。じだんだを踏むこと」とあります。

 片桐洋一先生は、この通説に疑問を呈しておられます。引用しておきます。

一般には「地団駄を踏む」の意に解されているが疑問がある。万葉集に「立ち走り叫び袖ふりこいまろび足ずりしつつ」(1740)「こいまろび……足ずりし」というように「こいまろぶ」(ころがりまわる)とともに用いられ、名義抄でも「足+色(←一文字です)」という字を「たふる、まろぶ、ひざまづく、あしずり」と読んでいるからである。膝を含めて足を地にすりつけて残念がっているのであろうか。

 片桐先生が問題とされているのは、「足ずり」という行為のあり方ですね。「膝を含めて足を地にすりつける」という。でも私がここで問題としたいのは、そういう動作ではなく、男の悔しさが「地団駄を踏む」という表現で、果たして読者に伝わるのか、という点です。

 万葉集1740とは、実は浦島太郎の原形ともいうべき記事です。かなり長い作品なので全文引用は省略しますが、「立ち走り叫び袖ふりこいまろび足ずりしつつ」前後を引用しておきます。

 

この箱を 開きて見てば もとのごと 家はあらむと 玉櫛笥 少し開くに 白雲の 箱より出でて 常世辺に たなびきぬれば 立ち走り 叫び袖振り こいまろび 足ずりしつつ たちまちに 心消失せぬ 若くありし 肌も皺みぬ 黒くありし 髪も白けぬ ゆなゆなは 息さへ絶えて 後つひに 命死にける

 

 ざっとわかれば結構です。 この箇所は、玉手箱をあけて煙をかぶってしまった時の浦島の様子を描いたものです。 注意深くみてみましょう。

 まず煙を浴びて浦島がとった行動は、「立ち走」ることでした。煙から逃げようとしての行動でしょう。  

 次に「叫び袖振り」ですから、煙にまかれて逃げられず、「叫び」、煙を払おうとして「袖振」るわけでしょうね。

 次に「こいまろび」(ころげまわり)とあるのは、 たっぷり煙りを浴びた浦島が 弱ってしまい立っていられなくなって、ころげまわったのでしょう。

 次に「足ずり」が来ますが、これは保留。

 次に「心消失せぬ」ですが、これは「失神」しているということです。

 失神したあとは、老化が表面化しはじめ「肌も皺みぬ 黒くありし神も白けぬ」となってしまい、そして最後に「息さへ絶えて後つひに命死にける」ということになってしまう。そして浦島は急速に老化が進み、死んでしまっています。

 こうして見ると「立ち走り 叫び袖振り こいまろび 足ずりしつつ」は死ぬ間際に苦しんでいる浦島を表現した文言と解釈されえます。とすれば、「足ずり」は苦しみながら転げ回った末、失神間際で足をバタバタさせている様子、と解釈できますね。その姿は「足をすりあわせ」ているようにも見えたことでしょうし、そもそも「足ずり」とは死ぬほどの苦しみを前提とした動作、ということになります。

 これに対して「地団駄を踏む」はどうか。非常に悔しいことは間違いないでしょうが、少なくとも死を前提にした動作には思えない。広辞苑(第三版)には「怒りもがいて、またくやしがって、はげしく地面を踏む」とあり、用例として(浄 反魂香とありますが、浄瑠璃の反魂香なのでしょうか)、「四郎二郎ぢだんだ踏んで、エゝ佞臣ども、むざむざとは死ぬまい」とあります。用例に「死ぬ」とあります。広辞苑のこの記事によれば「地団駄を踏む」にも死のニュアンスがありそうですが、でも死にかけて苦しんでいるのとは違う。死を前にして怒り狂っているわけで、怒りの方が全面にでてくる。

 やっぱり、「足ずり」の訳として「地団駄を踏む」は、ずれているんじゃないのか、と思うのです。

 では、どう訳せばよいのか。

 あらためて場面を確認しておくと、ようやくの思いでお姫様を盗み出し、芥川まで逃げてきたわけです。これ、電車も自動車もなかった当時としては、とんでもない距離なわけです。本当に一晩で、しかもお姫様を連れて移動できるものなのか、大いに疑問ですが、その疑問はともかく、それほどお姫様に寄せる思いは強かったわけです。雨が降り、雷がなり、あばら屋にお姫様を押し込んだあと、自分は武装して入口を守っていた。これもお姫様に寄せる思いが強かったことを示します。

 そして、そのお姫様がですよ、突如消えちゃったわけです。しかも鬼に食われちゃったわけです。これはたまらない。あれほど苦労して盗み出したお姫様を……。その苦しみは「地団駄を踏んだ」なんてものではなかったでしょう。それこそ、死ぬほど後悔し苦しんだことでしょう。 その苦しみの表現として「足ずり」とでてきているのですから、意訳ですが「横たわって身もだえし、死ぬほど苦しみながら(泣いたけれど)」とでもすべきではないでしょうか?いかがなものでしょうかね。

芥川12

男、弓、やなぐひを負ひて戸口にをり。 はや夜も明けなむと思ひつつゐたりけるに、 鬼、はや一口に食ひてけり。「あなや」と言ひけれど、 神鳴る騒ぎに、え聞かざりけり

 女を連れて逃亡中、夜も更けたし雨も降ってきたし、その上、雷までも鳴り始めたので、あばら屋に緊急避難した男でしたが、そこは鬼の住む所でした。今日の箇所を逐一説明していきましょう。

男、弓、やなぐひを負ひて戸口にをり」とは、弓は問題ないでしょう。「やなぐひ」とは矢をいれる道具で、背中に背負うものです。男は武装したんですね。それであばら屋の入り口にたって、女を守っている。訳は「男は弓とやなぐいを背負って、戸口に立っている」となりますね。

はや夜も明けなむと思ひつつゐたりけるに」は「なむ」がポイント。「なむ」は願望を表す終助詞です。「~したい」「~してほしい」と訳します。助詞ってあんまり問題にならないんですが、この「なむ」は例外で重要です。ちなみに未然形接続です。そうそう、係助詞にも「なむ」ってありますよね。これとの識別が問題にされる時もあります。識別の方法?簡単ですよ。願望の「なむ」って終助詞ですから、基本的に文末にしかきません。でも係助詞の「なむ」は文の途中にしかきません。文末に来たら、どうやって文末の連体形を作るんですか?(笑)ただし、「省略」の場合もありますので、一概にはいえませんがね。訳は「早く夜もあけてほしいものだと思いながら(戸口のところに)いたところ」となります。

鬼、はや一口に食ひてけり」は、「食ひてけり」の「て」は完了「つ」の連用形。訳は「鬼ははやくも一口で食べてしまった」となります。

「あなや」と言ひけれど、」は、「あなや」は女の叫び声。「あれえ」と訳すのが多いですね。訳は「「あれえ」と言った(叫んだ)けれど」となります。

神鳴る騒ぎに、え聞かざりけり」は「え~ず」が最重要ポイント。不可能を表し、「~できない」と訳します。「神」はもちろん「雷」。訳は「雷が鳴る騒ぎで、(女性の悲鳴が)聞こえなかった」となります。「え聞かざりけり」を「聞かなかった」などと訳さないように。不注意です。

 今日はこれまで。

芥川11

行く先多く、夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥に押し入れて、

 

 ここは一見なんてことのないように見えますが、なかなか訳しにくいところです。まずは、逐一確認してみましょう。

 「行く先多く」は「行く先遠く」の誤りとするのが一般です。状況は姫君を盗んで逃げてきて、芥川までやってきて、というシチュエーションですからね。ここで宅配便じゃあるまいし、行く先が多くってもしょうがない。安住の地を求めて逃げているのですから、安住の地はまだまだ遠く、の意味で「行く先多く」は「行く先遠く」の誤りとするのがいいでしょう。もっとも、何でこうなったのかわからないので、本当にこれでいいのか、ちょっと不安ではありますがね。とりあえずここでは「行き先遠く」の誤としておきます。

 「夜もふけにければ」は「夜も更けたので」ということ。「已然形+ば」に注意。

 「鬼ある所とも知らで」は「鬼がいる所とも知らずに」ということ。主語がありませんけれど、芥川まで逃げてきたと行っているので、「この芥川の地は」が主語になるでしょうね。

 「神さへいといみじう鳴り」は「さへ」は添加と言われています。「(それに加えて)~までも」と訳します。それほど難しくはないのですが、ちょこちょこテストで尋ねられるところですね。 旺文社全訳古語辞典から用例を紹介しましょう。

をとついも昨日も今日も見つれども明日さへ見まく欲しき君かも(万葉集6/1019)(おとといも昨日も今日もあったけれども、そのうえ明日も逢いたいあなただなあ)

 似たような言葉に「だに」というのがあります。中世以降、「さへ」は「だに」と混同されていくのですが、それはまた別の項目でお話します。

 「神」は雷のこと。「鳴り」でピンときてほしいですね。だって神様が「鳴る」わけないでしょ(笑)。

 そうそう、ここの「いといみじう」は、テストで訳すときにはちょっと注意が必要です。「いと」と「いみじう」とありますので、訳すときには「とても」+「激しく」とでもしておかなければいけません。それを「激しく」しか書かなければ、意味的には大して変わりはないかもしれませんが、「いと」の訳し漏れとして減点されてしまいます。テストの現代語訳は「逐語訳」を基本として、あとは文脈にあわせて自然な日本語になるように心がけてください。

 「雨もいたう降りければ」は「雨も強く降ったので」ということ。ここでも「已然形+ば」が登場しています。

 「あばらなる蔵に、女をば奥に押し入れて」は、「あばらなる」は形容動詞です。「あばら」といえば「肋骨」を連想しますので名詞かな、とも思われますが、漢字でかけば「荒らなり」「疎らなり」となり、形容動詞であることは理解されるでしょう。荒れ果てて、物がなくて、がらんとしている様子のことです。

ちょうど、そういう蔵があったんでしょうね、「女を(蔵の)奥に押し入れ」たわけです。

 ちなみにですね、この「がらんとした様子」が発展して、「まばらだ、手薄だ」の意味も発生します。ベネッセ古語辞典より用例を紹介しましょう。

高橋心はたけく思へども、後ろあばらになりければ、力及ばで引き退く(平家物語7篠原合戦)(高橋長綱は気を強く持っているが、背後(の味方の兵)がまばらになったので、戦力が足りず退却する)

後続の味方が「あばらに」なったので退却した。つまり、後続の味方の数が減ってしまって手薄になってしまったので退却した、というわけです。

 また、「あばる(荒る)」という動詞もあります。「(家などが)荒れ果てる」ことであり、「暴れる」ことではありません。これもベネッセより用例を紹介しておきましょう。

女のひとり住む所は、いたくあばれて、築土〔ついひぢ〕なども全〔また〕からず……(枕草子178)(女が一人で住んでいる所は、ひどく荒れ果てて、土塀なども完全ではなくて……)

 「女が一人で住んでいる所は、(乱暴な男がやってきて)ひどく暴れて、土塀なども(壊されてしまい)完全ではなくなり」と訳す人がいるかもしれませんね(笑)

 

 さて以上を並べてみましょう。

 「行く先遠く」「夜も更けたので」「鬼がいるところとも知らずに」「雷までもとても激しく鳴り」「雨も激しく降ったので」「隙間だらけの荒れ果てた蔵に女を奥に押し入れて」

 となります。意味わかります?

 安住の地まではまだまだ遠く、夜も更けたので、鬼がいる所ともしらずに、雷まで激しく鳴り、雨も激しく降ったので、 隙間だらけの荒れ果てた蔵に女を奥に押し入れて……

 なんとなくはわかりますがね、それじゃ通用しないのです。もっとよく考えなければ。

 片桐洋一先生が、面白いことを言っています。ここは文の構造がややこしいんですね。

(行く先多く、夜もふけにければ、)鬼ある所とも知らで、(神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、)女をば奥に押し入れて

 括弧をつけてみましたが、要するに括弧の部分が追加みたいなものなんです。本来は「鬼ある所とも知らで、女を奥に押し入れて」だったんですが、これにそれぞれ理由をくっつけた。だから表現上「已然形+ば」が繰り返されることになった、というわけです。なるほどねぇ~。

 この考え方に沿って、訳を組み立てなおすと、こうなりますかね。

 安住の地まではまだまだ遠く、夜も更けたので、鬼がいる所ともしらずに、(それに)雷まで激しく鳴り、雨も激しく降ったので 隙間だらけの荒れ果てた蔵に女を奥に押し入れて……

 中に「それに」を追加しただけです。ただそれだけ。でも、この一言を入れられるかどうかで、理解度を計ることができるわけです。

 できるだけシンプルに、ということは、時として背景はおそろしく複雑にならざるを得ない、ということでもあるわけです。

 

 

 

 

 

芥川10

芥川といふ河を率て行きければ、草の上に置きたりける露を、
「かれは何ぞ」
 となむ男に問ひける。
 
 「芥川」の話も10回目になるのに、ほとんど進みませんね……。まぁ、気長にやっていきましょう(苦笑)。
 さてこれまで「芥川といふ河を率て行きければ」を「芥川という川に(女を)連れていったところ」と訳すところまで来ました。
 次です。
 「草の上に置きたりける露を」は、「草の上におりた夜露を」でいいでしょう。夜露を「置く」というのは現代人の私たちにとって「ヘン」ではありますが、こう訳すしかないでしょうね。
 「かれは何ぞ」の「かれ」ですが、現代語でいう「あれ」でしょうね、とりあえず。
 これは指示語で、現代語では手元から始めて「これ」→「それ」→「あれ」となって、段々遠くなっていきますが、古語では「あれ」のもう一つ先に「かれ」があるのです。整理しておくと、こうなります。
 
これ(とても近いものを指す)
それ(結構近いものを指す)
あれ(ちょっと遠いものを指す)……現代語はここで終了
かれ(遠いものをさす)
 
 並べてみればわかりますが(並べなくてもわかるかな)、ポイントになるのは「こ・そ・あ・か」です。「こそあど言葉」ってありますよね。要するに、これって「こそあど言葉」です。これに「か」が入っているわけです(ちなみに「ど」は疑問詞「ど」)。「こなた→そなた→あなた→かなた」なんていうのも同系列ですね。
 現在は「かれ」といえば「彼」であり、男性に対する3人称であり、「これ、それ、あれ」の流れには入っていませんので、ここでは「あれ」と訳しておきましょう。
 「何ぞ」の「ぞ」は強調です。あまり深く考えないこと。考え始めると、すごくディープな世界へと入っていくことになります(笑)。ここでは「一体」という言葉をつけて、誤摩化しておきます。もちろん、「一体」が無くても結構です。
 ということで、「かれは何ぞ」は「あれは一体何でしょうか」となりますかね。丁寧語を使ったのは、女性らしいやわらかさが欲しかったからです。「ありゃ、一体なんじゃいな?」でも文法的には間違いないんですが、お姫様の言葉としてはね〜。
 「となむ問ひける」の「なむ」は係助詞。強調を表しますが、無視してもらって結構です。今後、係助詞「なむ」が登場したら、翻訳上は無視することにしましょう。
 「問ひける」の「ける」は間接過去。係助詞「なむ」の影響で、連体形になるわけです。所謂「係り結び」です。
 ここでは直接過去「き」ではなく、間接過去「けり」が使われているのもちょっとチェック。このお話は実体験ではないことを示しています。
 
 今回はさくさく進みました。
 それにしても、このお姫様はすさまじい方なんでしょうね。なんせ、夜露もみたことがない。夜になれば早々にお休みになるのでしょうか?
 
 

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