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・サンプル
対比はわかったけど、これがどう役に立つのか?
こんな質問が次々に聞こえてきます。でも、対比ってやっぱり大切なんです。
問4 傍線部C1「普遍的存在」と傍線部C2「個体的存在」についての筆者の考えとして適当でないものを、次の……(以下省略)
これは平成20年追試の評論文からです。これ、「普遍」と「個体」とですから、露骨に対比ですね。ですから、両者を裏表のワンセットとして考えればいいわけです。この問題は「適当でないもの」という嫌らしい?タイプの問題ですので、正解はあげませんが、「適当であるもの」をひとつあげておきましょう。わかりやすいやつです。
普遍的存在を支えている思考はもちろん精神的なものであるが、個体的存在を支えている感覚も意外なほど精神的なものである。
答え方に注意してください。「普遍的存在」と「個体的存在」とが対比になって答えられていること、理解できましたか?
もうひとつ、ちょっと難しめの問題です。
問2 傍線部A「たしかに『複数オニ』や『陣オニ』はおこなわれているけれども、それらはもはや普通の隠れん坊の退屈さを救うためにアクセントをつけた、といったていどのことではない」とあるが、それはどういうことか。その説明として……(以下省略)
平成21年の評論文の問題です。
この問題を考える上で絶対に気付かなければいけないのは、「複数オニ」「陣オニ」と「普通の隠れん坊」とが対比になっていることなんです(対比に気付くにはどうすればよいのか、はそのうち紹介します)。
この対比を基本にしてみると、次のことがわかりますね。
①「普通の隠れん坊」は退屈である(退屈なところがある)
これに対比をくっつけてみますと……
→②「複数オニ」「陣オニ」はそうした退屈さはない
となります。それに加えて本文では、「といったていどのことではない」とありますので、これも合わせてみると……
→③「複数オニ」「陣オニ」は「普通の隠れん坊」を越えている(ところがある)
となります。つまり、傍線部Aの言っている内容は、③なわけです。だから考えるべきは……
=④「複数オニ」「陣オニ」が「普通の隠れん坊」を越えているところって、どこ?
となります。問題は④をややこしく?言い換えているのです。
参考までに、解答も引用しておきます。
「複数オニ」や「陣オニ」は、オニも隠れた者も仲間のもとに戻ることが想定されていない点で、従来の隠れん坊の本質であった、社会から離脱し復帰する要素を完全に欠いてしまっているということ。
解答も「複数オニ」「陣オニ」と「従来の隠れん坊」とが対比になっていること、理解されえますか? すなわち、問題作成者は対比を十分意識して、問題を作成している、ということなんです。
ここで付言しておきます。
現代文が苦手という人の中には、少なからず問題の読解に注意不足という人がいます。問題文には、もっと注意を払いましょう(問題文に対する注意のあり方は後述します)
センター現代文の攻略(理論編)
センター現代文の攻略について、質問を受けることが多くなりました。しばらくセンター現代文をとりあげてみましょう。
まずは、理論面からお話します。退屈かもしれませんが、おつきあいください。
1 基礎理論
1-1 対比
受験問題はある種のパターンを利用して構成されています。その場限りの思いつきで作られたものではありません。細かく言い出せばきりがないのかもしれませんが、私は現代文を考える際には、以下の3つのパターンを最初に説明しています。その3つのパターンとは……
a 対比
b 同義反復
c 具体例
です。最初に対比から説明しましょう。
対比とは何か。
私たちは毎日、何かを説明しながら生活しています。では説明する時、どんな言い方をしているでしょう?
最も単純な説明のあり方は「A=B」のパターンです。「これってさぁ、……だよね」というのが、このタイプ。日常生活で頻用されるパターンです。
でも、これだけではわかってもらえない場合はどうします?例えば反論されたら……。
「A君ってやさしいよね」
「えっ、どこが!?」
こんな会話、日常的になされてます。じゃ、次にどんな言葉がくるでしょうか?
「だって、B君は……なんだよ」
なるほど、B君は「ひどい奴」なんですね(笑)。どんな「ひどい奴」なのかはわかりませんが、とにかくど「ひどい奴」のはずです。さもなくば、こういう言い方はしません。
で、ここで問題です。「A君の話をしているのに、どうしてB君が登場するのでしょうか?」
答えは簡単です。
・A君のやさしさを強調するために、「ひどい奴」B君を登場させた。
・A君とB君とを比較することで、A君がやさしい人であることを言いたかったから
・B君がどれほど極悪非道かを言えば言うほど、A君がやさしい人であることになるから
もちろん、どれも正解です。
で、これが対比です。わかりますか?
私たちは「A=B」のパターンが通用しないとき、意識的にか、無意識的にかは知りませんが、往々にして比較対象「C」を登場させるんです。そして、AとCとを比べる形で「A=B」が間違いないことを強調しようとするのです。
「確かにB君に比べれば、A君はやさしいよね」
「でしょう~(笑)」
……彼女たちは、自分たちが「対比」をいう高等テクニックを用いて会話をしていることに、全く気付いていません。
そして、国語が苦手という人も、課題文の中で、あるいは問題文の中で、対比が盛んに用いられていることに気付いていません。「対比」の存在を覚えておいてください。
それにしても、見づらいな〜
では解説にはいりましょう。
これは、二条の后の、いとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐ給ひけるを、 かたちのいとめでたくおはしましければ、盗みて負ひていでたりけるを、御兄堀川の大臣、太郎国経の大納言、 まだ下臈にて いみじう泣く人のあるを聞きつけて、とどめてとりかへし給うてけり。それを、かく鬼とはいふなりけり。まだいと若うて、后のただにおはしましける時とや。
急にリアルな話になりました。
「これは、二条の后の、いとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐ給ひけるを、」とは、「二条の后」は物語中に登場するお姫様で藤原高子のこと。「いとこの女御」は藤原明子(「あきらけいこ」と読む。染殿の女御、文徳天皇妃で清和天皇の母)のこと。人間関係がややこしくなるといけないので、整理しておきましょう。
ここに登場する藤原氏は、いずれも「藤原北家」とよばれる藤原氏で、藤原氏の中でも最強でした。その中に「冬嗣(ふゆつぐ)」という人物がおりまして、この人が凄かった。どう凄かったのかはおいときますが、日本史の教科書にも登場するくらい凄かった、とだけ言っておきましょう。
冬嗣には子どもが大勢おりまして、その中に長良、良房という人がおりました。
長良には、国経、基経、高子(たかいこ)の3人の子どもがありました。
良房には明子(あきらけいこ)という子どもがおりました。余談ですが、明子は文徳天皇の女御で後に清和天皇を産みます。染殿の后と呼ばれました。しっかりと藤原氏隆盛に貢献してますね。
はい、これで登場人物は全員でました。
業平にさらわれたお姫様は「高子」であり、彼女は長良の娘、国経、基経の兄弟です。この物語の主人公といっていいでしょうね。「いとこの女御」は良房の娘、明子のこと。高子はいとこのもとにお仕えするかたちで朝廷にあがったということです。
人物はちょっとおいといて、語義に移ると、「仕うまつるやうにて」の「まつる」は補助動詞で謙譲語。明子にお仕えするのですから、明子を敬意の対象として謙譲語が使われています。よくわかんない、と言う人は、敬語法はいずれ説明しますので、いまは気にしないでください。
「ゐ給ひける」の「給ふ」も敬語表現で、こちらは尊敬語。主語の高子を敬意の対象として尊敬語が使われています。これも、わからないと人はほうっておいてください。
文末の「を」は単純な接続で解釈しておきましょう。「~したところ」と訳します。
まとめると「これは、二条の后が、いとこの女御のもとにお仕え申し上げるように(なって)いていらっしゃったところ」としておきましょう。途中に「なって」を入れておいたのは、逐語訳ではどうにも動きがとれないからです。
「かたちのいとめでたくおはしましければ、」とは「かたち」は見た目のこと。「容貌」と訳されることが多いようです。「おはしましければ」の「おはします」は「あり」の尊敬語で「~でいらっしゃる」と訳します。敬意の対象は主語である「二条の后(=高子)」です。「おはしましければ」は「已然形+ば」を使用してあることにも注意してください。「容貌が非常にすぐれていらっしゃったので」とやくします。
「盗みて負ひていでたりけるを」は、急に主語が変わります。盗んだの業平ということはすでにわかってますから、「そんなこと、わかってるでしょ」ということで、主語は、変化したにも関わらず省略されています。主語の問題は、古文の面倒くさいところの一つです。
文末の「を」は原因(確定条件)で解釈しておきましょうか。「盗んで背負って出て行ったので」となります。この「を」は結構訳しにくい言葉です。
「御兄堀川の大臣、太郎国経の大納言、 まだ下臈にて いみじう泣く人のあるを聞きつけて」とは「堀川の大臣」は基経のこと。基経と国経の兄弟が妹の高子を探しまわったのです。
「まだ下﨟にて」とは二人が身分が低かったということ。「いみじう泣く人のあるを聞きつけて」とは、二人がひどく泣いている人がいるのを聞きつけて、ということ。ここでのポイントは、「まだ下﨟にて」が「いみじう泣く人云々」とは関係がないということに気付くかどうか、ということでしょう。「まだ下﨟にて」は挿入的に用いられています。これを混同すると、わけがわかんなくなるかもしれません。
「とどめてとりかへし給うてけり」とは「とどむ」は「とどめる、ひきとめる」で訳しておきましょう。なんかしっくりしないんですがね。「とりかへし給うてけり」は「給う」は尊敬語で、敬意の対象は基経、国経兄弟。「てけり」は完了「つ」の連用形+過去「けり」の終止形。「~してしまった、~したのだった」と訳します。まとめると、「ひきとめて取り返しなさったのだった」となります。
「それを、かく鬼とはいふなりけり。まだいと若うて、后のただにおはしましける時とや。」とは「かく」は「このように」ということ。「まだいと若うて」は、主語がないので、誰が「若かった」のかはっきりしませんが、兄弟3人全員を示すにせよ、基経・国経を示すにせよ、まぁ文章中で大した違いはありませんし、兄弟ならば一人が若ければ、残りも大体若いものでしょうから、ここはあえて主語はいれずに、ぼかしておきましょう。
「ただに」は原形は「ただなり」。形容動詞です。ここでは「ただの人」の意で解釈しておき、まだ朝廷内での地位をもっていなかった、と理解しておきます。訳は「それを、このように鬼といったのであった。まだとても若くて、二条の后が朝廷内で地位を有していらっしゃらなかった時のこととか」となります。
以上、解説してきましたが、これは「芥川」の裏話ですね。本当は鬼なんていなくて、業平が高子をさらって、それを基経・国経兄弟が取り返してきた、のが真実だ、というわけです。
たしかにねぇ、芥川って伊勢物語の代表選手みたいなポジションにあるんですが(だから教科書にも掲載されるのです)、実は似たような話がいくつかあるんです。
次回はそのへんのことを、お話しましょう。今日はここまで。
歌の続きです。岩波によれば高崎正秀先生が、この歌について面白いことを言っているらしいのです。というのは、
「古今集・雑上の源融の歌「主(ぬし)やたれ問へど白玉いはなくにさらばなべてやあはれと思はむ」に対する返歌という形で詠まれたものだろうと推論している。」
といってるんです。白玉が落ちてたんですかね、ご主人(持ち主)は誰なんだ?と問うてみても白玉は何もいわない(当たり前ですが)。何も言わない分だけ、この白玉がかわいそうに思えてくる、というのがこの歌の意味です。
この歌の返しとして「白玉か何ぞと人の問ひしときつゆと答へて消えなましものを」が詠まれたとすれば、白玉かな、一体何なんだろう?と問われたとき、わたしは露ですよ、と答えて消えてしまえばよかったな、と解釈するんですかね?
高崎先生の著作を調べたいけど、手元に無いので見れません。残念!!
ということで、この歌おわり。そうそう、追加ですが、片桐先生は、この歌は業平の歌ではないんじゃないの?と疑っておられます。
物語の続きです。芥川の話は以上で終わりですが、追加資料みたいなのがくっついているので、それも紹介しておきましょう。
これは、二条の后の、いとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐ給ひけるを、 かたちのいとめでたくおはしましければ、盗みて負ひていでたりけるを、御兄堀川の大臣、太郎国経の大納言、 まだ下臈にて いみじう泣く人のあるを聞きつけて、とどめてとりかへし給うてけり。それを、かく鬼とはいふなりけり。まだいと若うて、后のただにおはしましける時とや。
解説は明日にしましょう。今日はここまで。
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