忍者ブログ

今日の国語

シンプルに

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

2012漢文センター本試 構造

 訓点はあきらめました……。
 それでも、一応の解説はできますので、説明していきましょう。
 
まずは眼から                                            
 
 漢文といえば、「句法」が最初にうるさく言われます。
 全部でいくつあるのか知りませんが、あれも覚えとけ、これも覚えとけ、と言われて不愉快な思いをした人もいるかもしれません。
 でも、句法以上に大切なことってあるんです。
 それは眼です。
 
 漢文というのは非常に特殊な言語でして、文字の横に数字(訓点)やら仮名(送り仮名)が置かれています。
 漢文をスラスラ読めるというのは、本文の文字、訓点、送り仮名の3種を同時に脳内で処理できるということです。
 そして処理するためには、この3種を同時にみることができなければなりません。
 
 これって結構難しいことなんです。
 だから漢文が苦手という人は、大抵、読みの段階でひっかかっています。
 
 漢文が苦手、という人は、まず音読してください。
 そして眼を鍛えてください。意味なんか多少わからなくてもかまいません。
 初見の漢文をスラスラ?読めるようにならなければ、時間が足りなくなってしまいます。
 (これは古文や英語にも言えることです)
 
 とはいえ、「音読ができればいいや」ぐらいの軽い気持ちで、毎日音読していても、かなり上達します。
 センターまで時間はありませんが、それでも訓練する時間としては、十分です
 
 「自分は読むのが遅い」と思ったならば、音読して眼を鍛えてください。
 句法云々は、その次のことです。
 
 
形式からはいる                              
 
今日は課題文の分析から入ります。
 
 東坡元豊間繋御史獄、謫黄州。元祐初、起知登州、未幾、以礼部員外郎。道中偶当時獄官、甚有愧色。東坡戯之曰「有蛇螫殺人、為冥官所追議、法当死。蛇前訴曰『誠有罪、然亦有功、可以自贖』。冥官曰『何功也』。蛇曰『某有黄、可治病、所活已数人矣』。吏考験、固不誣、遂x。良久、牽一牛至。獄吏曰『此牛触殺人。亦当死』。牛曰『我亦有黄、可以治病、亦活数人矣』。良久、亦x。久之、獄吏引一人至。曰『此人生常殺人、幸免死。今当還命』。其人倉皇妄言亦有黄。冥官大怒、詰之曰『蛇黄・牛黄皆入薬、天下所共知。汝為人、何黄之有。』左右交訊、其人窘甚曰『某別無黄。但有些慚惶。』」
 
 全一段落なのでわかりにくいですが(訓点がないのでなおさらですが)、この文章は一定の構造に基づいて構成されています。
 
 東坡元豊間繋御史獄、謫黄州。元祐初、起知登州、未幾、以礼部員外郎。道中偶当時獄官、甚有愧色。東坡戯之曰
 
 この部分は、地の文です。そして残りは全部会話文から成立しています。
 地の文から確認しておきます。ややこしいことを言っているようにも見えますが、実は単純なんです。
 
 東坡元豊間繋御史獄、謫黄州。元祐初、起知登州、未幾、以礼部員外郎。
 
 元豊、元祐はともに年号です。元豊のときは、御史の獄につながれ、黄州に流されたのだが、元祐のはじめの頃は、登州の知事となり、次に礼部員外郎となったとありますが、要は元豊のときに追放処分、元祐のときには、島流しどころか、出世した、と言っているだけです。
 対比ですね。対比を使えば、話を簡単にすることができます。
 御史獄云々などに、あまり悩まないようにしてください。そんな知識関係のこと、きかれるはずないんですから。
 
 残りをみてみましょう。
 話が3段落で構成されていることがわかりますか?
 
A 「有蛇螫殺人、為冥官所追議、法当死。蛇前訴曰『誠有罪、然亦有功、可以自贖』。冥官曰『何功也』。蛇曰『某有黄、可治病、所活已数人矣』。吏考験、固不誣、遂x。
B 良久、牽一牛至。獄吏曰『此牛触殺人。亦当死』。牛曰『我亦有黄、可以治病、亦活数人矣』。良久、亦x。
C 久之、獄吏引一人至。曰『此人生常殺人、幸免死。今当還命』。其人倉皇妄言亦有黄。冥官大怒、詰之曰『蛇黄・牛黄皆入薬、天下所共知。汝為人、何黄之有。』左右交訊、其人窘甚曰『某別無黄。但有些慚惶。』」
 
 この3段落は相互に意識して構成されています。
 構成のあり方が単純なんです。
 この構成のあり方を十分生かすことができれば、この問題は比較的容易に解答することができます。
 
 どのようにやればよいのか。
 明日、お話します。考えておいてください。
 
 今日はここまで。
PR
PR
" dc:identifier="http://kyoukoku.hyakunin-isshu.net/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/20130109" /> -->

2012立教大学文学部 問G

 今日で最後の問題です。正誤問題です。
 早速やっていきましょう。
 
 
課題文全体を対象とする                                           
 
 問題文を確認します。
 
(H) 次記各項のうち、本文の内容と合致するものを1、合致しないものを2として、それぞれ番号で答えよ。
 
 「本文の内容と合致するもの」はセンターの最終問題でもよくとりあげられるパターンです。
 こういうタイプの問題は、必ずではないにせよ、これまで解いた問題を違う形式にして繰り返していることが多いものです。つまり、これまで何度も用いてきた対比を中心に考え、必要に応じて該当部分をもう一度確認することで正解にたどりつけますが、今回はその限りではなく、微妙なところを突いてきます。
 
 確認していきましょう。
 
イ ファーブル『昆虫記』の魅力は肉体の思考を実験や観察で裏付けているところにある。
→ファーブルはこれまでの対比の中には登場しませんでした。具体例の中に埋没してしまったのでしょう。
 該当する段落を引用しておきます。
 
僕はファーブルやポアンカレーを素人考えで大そう好いているのだが、それは彼らの仕事の中身がつまっているからだ。僕は素人考えで好いているので、科学のことは何も知らない。僕の眼に映ったようなものは彼らの科学者としての仕事のほんの些細(ささい)な一部に過ぎないのだろう。だがそれならば、全体の仕事のほんの一部が、しかも科学者のことをまるで知らない一人の素人をそれほど感動させるとすれば、それは彼らの仕事の中身が全くひどくつまっているからだということになりはしなかろうか。例えば『昆虫記』の中で著者は綿々として話しかける。彼の中には天国ほども豊富な材料がある。天体の運行ほども正確な実験や観察の結果がある。そして彼自身には、それを語ろうとする大きな熱意だけがあって他意はない。彼は彼の話せるだけを話す。そしてそれっきりだ。彼は彼に対する愛憎を自然のように人まかせにしている。彼は行くところまで行き――その途中彼はただ行くことだけをする――そしてそこで倒れる。その仕事の仕振りは、いわばそのまま古典的であるほどにも水々しく、人をびっくりさせるほどにも素直である。
 
 ファーブルはポアンカレーと並列されています。ただし、対比の中で否定的に扱われたポアンカレーではありません。
 筆者は両者を好んでいます。その理由は「それは彼らの仕事の中身がつまっているから」です。
 これを詳しく述べますと「彼の中には……」以降の部分に該当します。これが「中味がつまっている」ということです。
 
 これらの内容をイと比較しましょう。
 イはファーブルの魅力を「肉体の思考を実験や観察で裏付けているところにある」としています。
 「裏付けている」という言い方に注目しましょう。「裏付けている」から面白いのであれば、「裏付けていな」ければ、面白くない、というのでしょうか?
 違いますね。
 「裏付けている」「裏付けていない」ではなく、「中味がつまっている」から面白いとしているのです。
 よってイは誤り。2です。
 
 あるいは別の考え方です。
 ファーブルとポアンカレーとは並列されており、両者は「中味がつまっている」から面白いとされています。
 もしイが正しいとすれば、ポアンカレーにもあてはまるはずです。
 しかし同じ科学者とはいえ、ポアンカレーにイの定義はあてはまるかどうか、確認されない。
 単に「中味がつまっている」と言われているだけです。
 よってイは誤り、としてもよいでしょう。
 
 
ロ 作家は、自分の作品について後から注解を加えるようなことをしてはならない。
→この文で注意しなければならないのは「後から注解を加えるようなこと」の意味です。
 該当箇所を引用しておきましょう。
 
 そこからして僕はまた、いい作家というものは新しい一つの仕事にそれまでのすべての仕事を打ち込むものだと考えている。最後の作の中へはその一つ手前までのいっさいをぶち込む。すべての経験、すべてのすでに取り扱われた対象、既に取り扱われた取扱い方、すべての大根(おおね)から小手先までの技術、そういうものいっさいをぶち込む。僕の考えによれば、このすべての瞬間にいっさいを叩き込むという態度こそ最も素樸な態度なのだ。
 人がこういう状態でいる時は誰もわき見したりつまらぬ気がねをしたりはしないだろう。その瞬間にやった自分の行為に対して註釈したり弁解したりしないだろう。そんなことはできないし、そんなことは吝(けち)臭く思われるだろう。で、僕は、作家なら作家は、彼の人間的価値を問うためには彼の制作上の価値だけを取り出して見せる覚悟を持つ必要があろうと考える。後世の全集編纂者や本屋の類が(注8)断簡零墨を蒐集するのはいいことだろうが、万一作家がそのことを全集編纂者や本屋の手代に期待して死ぬとあれば、彼は堕獄するしかあるまいと思うのだ。
 
 2番目の段落だけでよかったのですが、どうにも落ち着きが悪かったので、前の段落も引用しました。
 該当箇所は2番目の段落の「その瞬間にやった自分の行為に対して註釈したり弁解したりしないだろう」です。
 「自分の行為」が「自分の作品」に該当し、「注解を加える」が「註釈したり弁解したり」に該当します。
 
 筆者は、1番目の段落で「いい作家というものは新しい一つの仕事にそれまでのすべての仕事を打ち込むものだ」と述べ、だから「その瞬間にやった自分の行為に対して註釈したり弁解したりしないだろう」というわけです。
 ロを「その瞬間に」の言い換えだと考えれば、ロは正解となります。よって1。
 
 この問題のきわどいところは、「注解」という言葉にあります。
 「注解」の意味を「注釈」と解釈してしまい、自分の作品の解説をする、と解釈してしまえば、全く異なった方向へと進んでしまいます。
 非常にいやらしい言葉遣いではありますが、注意しましょう。
 
 
ハ 人間には、自分の仕事に誠実に取り組み、それを社会に役立てていく責任がある。
→これはイでみたファーブルのところを応用しても解答できます。
 ファーブルについて、筆者は「そして彼自身には、それを語ろうとする大きな熱意だけがあって他意はない。彼は彼の話せるだけを話す。そしてそれっきりだ」といいます。ここにはそもそも「社会」が入る余地はありません。
 よって誤り。2です。
 
 あるいは最終段落から考えてみてもよいでしょう。
 
 僕のひとり考えでは、仕事の価値はそれがどこまでそれを取り囲む人間生活の中に生き返るかにある。車輪の発明者を誰も記憶していない。だが車輪を使わない人間が一人もいないくらいに彼を記憶している。誰も車輪の発明者に感謝していない。しかし人間の残らずが車輪を使用しているということよりも立派な感謝状は一枚もないに違いない。我々はしばしば、歴史一般の中に掻き消されている力学の歴史、医学の歴史等々を忘れている。同様に芸術の歴史の中にしばしば掻き消されている芸術に関する学問の歴史を忘れている。また例えば演劇の歴史にしても、その中に撚り込められて素人には見えない演出の歴史、建築の歴史、照明の歴史等々を忘れている。忘れているどころか僕なぞはだいたい少しも知らない。そしてその無知からして、我々自身の文字となって残るような仕事だけが仕事だと思い込み、それがそれとして人の眼に映るために千万無量のお蔭を蒙っている眼に見えない仕事、瞬間に消えてゆくような仕事を仕事だとも思わないようになる。それは間違っており、無知であるために不遜であるところのものであり、仕事の価値を真実に知っており、それゆえこういう輩からは永久に顧みられないような仕事を一生の仕事としてコツコツと築いてゆくような賢い人たちからは憐まれるところのものであろう。こういう(5)本当の賢さを持った人たちから笑われ憐まれることのないような考え方こそ、僕は、我々の持つべき仕事に対する素樸な考え方だと考えている。
 
 最初の一文にある「人間生活」が「社会」に該当すると考えてよいでしょう。
 社会への貢献度が仕事の価値というわけです。
 その意味では「社会に役立てていく責任」もありそうですが、この段落はその後、「社会への貢献度が高いけれど発明者が忘れられている仕事」へと話がすすむわけで、「人間の責任」は議論の対象にはなっていません。
 微妙なところですが、議論の対象となっていない以上、誤り、2とすべきです。
 
 
ニ 自分がそれほど大切だと思っていないことで他人から誤解されるのは煩わしい。
→一体どこに書いてるんだ?と思われる一文です。確認に手間取るかもしれません。
 該当段落を引用します。最初の方の段落です。
 
 何でこんなことを一々断わるかというと、人の言うことを次ぎから次ぎへと勘違いして歩く人があるからだ。僕は、これもひとり合点なのだが、大切なことなら誤解されてもかまわないと思っている。大切なことは誰にでも理解されるというわけに行かないもので、それでもその大切なことはそれをまともに聞く耳をいつでも持っている。第一、誤解されない、捩(ね)じ曲げられない、あくどく喰ってかかられないような大切なことなぞはいくらもありはしないのだ。ただそれほど大切でないことは誤解されることを用心しなければならない。もしそういう誤解が生じてそれを解かなければならないとしたら、その仕事はなにしろ馬鹿々々しいに違いないから。それほどいいその素樸というものはそれならどんなものか。それが実は、素樸などというものを好きになったお蔭で僕に説明ができないのだ。僕は僕の思いついた話や譬(たと)え話をして、僕が考えている素樸に見当をつけてもらうことにする。
 
 「ただそれほど大切でないことは誤解されることを用心しなければならない」以降の部分です。
 「素朴」の話の中に紛れ込んでいること、選択肢の最後の方なのに、全体の最初のほうに該当箇所があること、が話をややこしくさせます。
 でも、ただそれだけのことです。
 
 
ホ ツルゲーネフにとって、作品を書くことと自分がどう生きるかは別問題だった。
→これはそのままですね。「正しい」ので1です
 
 
 以上で立教大学文学部の問題は終了です。
 何度も繰り返しますが、今回の問題は「対比」を学ぶために採用しました。
 その意味で、センター試験しか国語を受験しない生徒(理系の生徒など)にとっては、難しかったかもしれません。
 一部、センターとは異なるタイプの問題もありましたので(今日の問Hもその一例です)、国語はセンターのみという生徒は、これら例外的問題はほどほどに見ておいて、文中の対比のあり方、問題において対比をどう使うか、に注目して復習しておいてください。
 
 明日は漢文を扱います。
 漢文はブログ形式にもっともそぐわない?ため、大学入試センターの過去問を参照しておいてください。

2012立教大学文学部 問G

 問Fでも見られたように、この問題は対比中心に組まれています(ここに採用した理由です)。
 今回もやはり対比です。
 
 
対比から入ります                             
 
 問題を確認しましょう。
 
(G) ―――線部(5)について。「本当の賢さを持った人たちから笑われ憐まれることのないような考え方」とはどのような考え方か。その説明として最も適当なもの一つを、次記各項の中から選び、番号で答えよ。
 
 「本当の賢さを持った人たち」についてです。
 これも全体の対比を確認した時に、扱いました。再掲します。
 
・賢い人……車輪の発明など、感謝状なし、仕事の価値を知っている、(下記の逆)
・(そうでない人)……文字となって残る仕事だけが仕事と思っている、(感謝状あり?)
 
 基本はこれだけです。
 
 
段落と具体例                               
 
 段落もみておきましょう。
 
 僕のひとり考えでは、仕事の価値はそれがどこまでそれを取り囲む人間生活の中に生き返るかにある。車輪の発明者を誰も記憶していない。だが車輪を使わない人間が一人もいないくらいに彼を記憶している。誰も車輪の発明者に感謝していない。しかし人間の残らずが車輪を使用しているということよりも立派な感謝状は一枚もないに違いない。我々はしばしば、歴史一般の中に掻き消されている力学の歴史、医学の歴史等々を忘れている。同様に芸術の歴史の中にしばしば掻き消されている芸術に関する学問の歴史を忘れている。また例えば演劇の歴史にしても、その中に撚り込められて素人には見えない演出の歴史、建築の歴史、照明の歴史等々を忘れている。忘れているどころか僕なぞはだいたい少しも知らない。そしてその無知からして、我々自身の文字となって残るような仕事だけが仕事だと思い込み、それがそれとして人の眼に映るために千万無量のお蔭を蒙っている眼に見えない仕事、瞬間に消えてゆくような仕事を仕事だとも思わないようになる。それは間違っており、無知であるために不遜であるところのものであり、仕事の価値を真実に知っており、それゆえこういう輩からは永久に顧みられないような仕事を一生の仕事としてコツコツと築いてゆくような賢い人たちからは憐まれるところのものであろう。こういう(5)本当の賢さを持った人たちから笑われ憐まれることのないような考え方こそ、僕は、我々の持つべき仕事に対する素樸な考え方だと考えている。
 
 具体例が多くて主張と明確には区分されないまま議論が進められています。
 車輪の話、演劇の歴史など具体例がしばらく続きますが、そこから急に議論が抽象化され「その無知からして〜」と話が展開されます。
 具体例は常に主張と結びついているはずなので、では主張はどこにあるのかといえば、「無知」の一言にかかっていきます。つまり、私たちは先人たちの業績について「無知」だといっているだけなのです。(はじめから、そう言えばいいのに、という声がきこえてきそうですが、これは作者の文体の問題なので、どうしようもありません。読者側で捕捉していくほかないのです)。
 ですから、この段落の中心は「その無知からして〜」以降ということになります。もちろん、具体例を無視していいということではありませんが。
 

選択肢の確認                               
 
 選択肢の確認に入りましょう。

1 一生にわたって、長い時間をかけてコツコツと築きあげた仕事こそ意味のある仕事であり、その評価は後世に委ねればよいとする考え方。
 →「長い時間」云々は関係ないですね。逆の「短い時間で築き上げた仕事」は(そうでない人)に対応しませんから。また評価問題は「賢い人」にとって関係のないことです。「感謝状なし」ですから。ダメ。
 
2 仕事の価値は、それがどれだけ人間生活の営みに還元されたかによって問われるものであり、自分の名前が残るかどうかは問題にしないような考え方。
 →わるくはありません。前半部は課題文「仕事の価値はそれがどこまでそれを取り囲む人間生活の中に生き返るかにある」に対応するものでしょう。後半部「自分の名前が残るかどうかは問題にしない」は間違いではないのですが、正確には「問題にすらならない」です。それに、この部分は具体例の部分です。さてどうしましょう。
 このへんのきわどさが、難しいところです。他に適切なものがなければ、正解としてもよいでしょうが、ここでは判断しないほうがよいようです。保留。
 
3 歴史のなかで掻き消されてしまった名もない人々の尽力に感謝し、眼に見えない仕事を誠実にこなせる人間こそ賢人であるとする考え方。
 →前半部「歴史のなかで掻き消されてしまった名もない人々の尽力に感謝し」からして違います。課題文は「歴史のなかで掻き消されてしまった名もない人々の尽力」を知らないがゆえに不遜となり云々となり、感謝の問題には入りません。
 「感謝」は「誰も車輪の発明者に感謝していない」の「感謝」から来ているのでしょうが、この言葉は、その前の「だが車輪を使わない人間が一人もいないくらいに彼を記憶している」に対応する言葉で、「彼を記憶していまるが、感謝していない(実のところ、記憶していない)」の意味で使われています。つまり、本来の「感謝」の意味で使っているものではありません。ダメ。
 
4 文字となって残るような仕事だけが仕事だと思い込んでいた自分の無知と不遜に気づき、それを改めることによって、仕事の真価に近づこうとする考え方。
 →前半部は問題なし。課題文そのままです。後半部「仕事の真価」は、「賢い人」は「仕事の価値を真実に知っており」とあり、これの言い換えとして「(賢い人は)仕事の真価を知っている」とすることができます。すなわち
 「仕事の真価を知っている賢い人に近づこうとする」→「仕事の真価に近づこうとする」
としてよいでしょう。
 あるいは「賢い人」の修飾語「こういう輩からは永久に顧みられないような仕事」に対応すると考えても通じます。「こういう輩」とは「賢くない人」のことですから、本当の仕事を知らない人をさします。本当の仕事を知らない人に永久に顧みられないような仕事、といえば、真の仕事のことになります(対比ですから)。
 「真価に近づこうとする」とは次に続く「(真の仕事を)一生の仕事としてコツコツと築いてゆく」ことに対応すると判断されます。正解は4です。
 保留していた2は、ここで落ちます。
 
5 よりよい仕事をすることが人間的価値を高めることにつながるという信念をもって自分の仕事に邁進(まいしん)し、周囲の評価に頓着(とんじゃく)しない考え方。
 →前半部からして課題文とは方向性が異なりますね。ダメ。
 
 
 この問題は、大きくは対比で抑え、あとは段落をよく確認することで解答できます。
 ただし選択肢に少しばかりきわどいところがあり、難しいのはむしろこちらの方でしょう。
 
 もっとも、ひねってあるとはいっても、全てにわたってひねってあるということは、あまりないのではないでしょうか。
 経験上からいえば、ひねってあるのは、正解ともうひとつの、大体2つですね。
 
 志望校の過去問をよく見て、こういう状況があるのかどうか、確認しておいてください。
" dc:identifier="http://kyoukoku.hyakunin-isshu.net/2012%E7%AB%8B%E6%95%99%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%83%A8/2012%E7%AB%8B%E6%95%99%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%83%A8%20%E5%95%8Fg" /> -->

2012立教大学文学部 問F

 問題文を読んで、「一体どうすればいいの?」とか、「何をいってんのか、わかんない」と思ったことは、誰しもあると思います。
 これを評して「悪文だらけの国語」などと的外れな批判をする人も少なくないようです。「的外れ」と評するのは、そもそも試験なのだから、わかりにくいのが当たり前だから、それに批判しても何も変わらないのだから、批判するより解答する方に力を入れた方が建設的だから、が理由です。
 加えて、たとえ悪文であっても、そのくらい出題者は十分理解して出題しています。
 悪文か悪文ではないか、を考えるよりも、どのように対応していけばいいのか、考えましょう。
 

「どういうことか」とはどういうことか?                  
 
 よくわからない質問の仕方の1つに「〜とはどういうことか」という質問の仕方があります。
 結論から言いましょう。
 私は「どういうことか」に、次の定義をあてています。
 
 「どういうことか」とは「本文中の言葉を用いて、わかりやすく言い換えること」である。
 
 この定義は、「読解」の本質を考えて導き出した結論です。
 受験問題は「読解力」を求めます。これは受験生自身による「感想(=自分の考え)」は一切不要、ということです。
 「感想(=自分の考え)」が不要ということは、基本的に「自分の言葉で語らない」ということでもあります。
 よって、作者の言葉を用いて、作者の意図を明らかにしていくことが基本となるはずです。
 これを「解釈」といいます。
 
 もちろん自分の言葉を使ってはいけない、ということではありません。要約したりするとき、本文中の言葉では間に合わず、自分の言葉を使って解答することも、よくある話です。
 でもそれは国語が得意な人がやることであって、得意でない人がやると、脇道に逸れかねません。
 ですから、基本として「本文中の言葉を用いて、わかりやすく言い換えること」としています。
 
 
「対比」を用いて、解釈する                        
 
 本文に入りましょう。問題文からです。
 
(F) ―――線部(4)について。「芸術家とか詩人とかいうものは、彼が芸術家とか詩人とかいうものからどこまで自分を切り裂いて行くかというところにその価値が懸ってくる」とはどういうことか。その説明として最も適当なもの一つを、次記各項の中から選び、番号で答えよ。
 
 「どういうことか」が出てきてますね。「芸術家とか詩人とかいうものは〜」の一文を言い換えよ、ということです。
 
 言い換えるとはいっても、いろんなやり方があることでしょう。
 単語レベルで言い換えることもあるかもしれませんが、ここではその方法はとりません。
 
 課題文分析のところで述べたことを再掲します。
 
 この段落では、対比の中でとりあげた「身を打ち込んでいる」を拡大しています。
 すなわち、「どこまで自分を切り裂いて行くか」です。
 そして、そのベースに「生活をどこまで叩き上げるか」ということがある、と述べています。
 
 実は、話(=解説)はここで終了しています。すなわち、この一文は、
 
芸術家とか詩人とかいうものは、彼が芸術家とか詩人とかいうものからどこまで自分を切り裂いて行くか(=生活を基礎として、身を打込んでいくか)というところにその価値が懸ってくる
 
 となります。
 芸術家とか詩人とかいうものは、生活を基礎とすることを忘れずに、どこまで身を打込んでいくかということです。
 〔芸術(家)・詩(人)ー生活〕が対比になっているので、生活を忘れた芸術・詩はダメ、ということでもあります。
 このあたりのことは、次の段落のドストエフスキーとツルゲーネフとの対比の中でも述べられていたことを想起できれば、最高です。
 このように解釈できたら、あとは選択肢へいくだけです。
 
 
同義反復から確認                             
 
 しかし、対比に気付いていない場合はどうするのか。
 段落から入っていくのが基本と思います。もう一度引用文を示しておきます。
 
芸術家とか詩人とかいうものは、彼が芸術家とか詩人とかいうものからどこまで自分を切り裂いて行くかというところにその価値が懸ってくる
 
 この一文だけでは、ひっかかってくるところは「芸術家とか詩人とかいうもの」というフレーズぐらいでしょう。
 そこで段落を確認しましょう。
 
 そこでそこからして僕は若干キテレツな次ぎのような考えを持っている。それは(4)芸術家とか詩人とかいうものは、彼が芸術家とか詩人とかいうものからどこまで自分を切り裂いて行くかというところにその価値が懸ってくる、ということなのだ。制作をどこまで叩き上げるかということは、生活をどこまで叩き上げるかということを基礎にしない限りいくらやってみても堕落だと思うのだ。作家が生活を叩き上げるということは制作を叩き上げることによってしかなされないということが真理であるにもかかわらずだ。 
 
 この段落をよく見れば、「それは芸術家とか詩人とかいうものは〜」の一文と「制作をどこまで叩き上げるかということは〜」の一文が「同義反復」になっています。ここがポイントになります。
 ものすごく単純かつ乱暴にいえば、解答は、
 
 制作をどこまで叩き上げるかということは、生活をどこまで叩き上げるかということを基礎にしない限りいくらやってみても堕落だと思うのだ。
 
 ということになります(もちろん解答としてはダメですが)。
 解釈を進めましょう。
 
 この文の文意は、「生活」のない「制作」は「堕落である」ということです。ややこしい言い方をしていますが、注目すべきは「制作」と「生活」とが対比になっているところです。
 そして次の段落でドストエフスキーとツルゲーネフの対比へと進んでいくのですが、ここまで来ると、やはり対比が中心になるであろうことは、容易に推測できると思います。
 つまり、生活のある制作は○、生活のない制作は×、ということです。
 
 あとはこれを「芸術家とか〜」に戻してやればいいわけです。
 今回は選択肢なので、ここまでやる必要はなく、対比がわかったら選択肢へと移動するのですが、練習の意味も込めて、もう少し深入りしておきます。
 
芸術家とか詩人とかいうものは、彼が芸術家とか詩人とかいうものからどこまで自分を切り裂いて行くかというところにその価値が懸ってくる
 
 言い換えのポイントになるのは、「彼が芸術家とか詩人とかいうものからどこまで自分を切り裂いて行くか」あたりでしょう。
 そもそもわかりにくいのは「自分を切り裂いて行くか」という表現です。自分を切り裂いてどうするんでしょう?
 
 ここを単品で読むと、行き詰まります。ここは「芸術家とか詩人とかいうものから」、換言すれば「制作から」をセットにしなければいけません。「制作からどこまで自分を切り裂いて行くか」です。
※文を考えるとき、文の切り方を間違えて行き詰まるのは、よくある話です。
 
 「制作から自分を切り裂」いてどうするのか?もちろん、生活の方にまわすんでしょうね。
 すなわち解答は、芸術家とか詩人とかの価値は、制作からどれだけ(制作の基礎となる)生活へエネルギーをまわすことができるか、ということで決定される、といったニュアンスで作成されることと思われます。
 あとは字数の問題です。
※字数によって解答の表現は大きく変化しますが、今はそこまでは立ち入りません。
 
 
選択肢を確認                               
 
1 芸術家や詩人にとって、制作することと生活することは同一であり、自分という存在を食いちぎり続ける不断の営みだけが価値をもつということ。
 
2 芸術家や詩人は、生活を発展させるためにどこまで制作を削り落とすことができるかを考え、より厳選された作品だけを遺そうとすることが大切だということ。
 
3 芸術家や詩人にとって重要なのは、生活を叩き上げることであり、次々と新しい制作に打ち込んでいくこともまた、生活を発展させるための方策だということ。
 
4 芸術家や詩人は、自分が過去に制作したものはもちろん、生活のなかに安住しようとする気持ちすら棄て去り、常に新しい価値を追求しなければならないということ。
 
5 芸術家や詩人が後世に伝えることができるのは、制作上の価値だけであり、彼自身がどのような人間で、どのような生活を送ったかを問う必要はないということ。
 
 解答の文体が統一されていませんね(センターでは統一されていることが多いのです)。
 逐一確認していきましょう。
 
1 芸術家や詩人にとって、制作することと生活することは同一であり、自分という存在を食いちぎり続ける不断の営みだけが価値をもつということ。
 →「自分という存在を食いちぎり続ける不断の営みだけが価値をもつ」はダメ。「食いちぎり続ける」は「切り裂いて行く」に対応させているのでしょうが、切り裂いていくのは「制作する自分」であり「自分という存在」自体ではありません。またここには〔制作ー生活〕の対比が存在しないのもダメ。
 
 
2 芸術家や詩人は、生活を発展させるためにどこまで制作を削り落とすことができるかを考え、より厳選された作品だけを遺そうとすることが大切だということ。
 →文が並列になっています。後半の「より厳選された作品」がダメ。筆者は作品にまで言及してません。
 
 
3 芸術家や詩人にとって重要なのは、生活を叩き上げることであり、次々と新しい制作に打ち込んでいくこともまた、生活を発展させるための方策だということ。
 →これですね。後半部がややわかりにくいですが、同段落の「作家が生活を叩き上げるということは制作を叩き上げることによってしかなされない」という部分から、消極的に理解されるでしょう。
 
 
4 芸術家や詩人は、自分が過去に制作したものはもちろん、生活のなかに安住しようとする気持ちすら棄て去り、常に新しい価値を追求しなければならないということ。
 →とんちんかんですね。ほっときましょう。
 
 
5 芸術家や詩人が後世に伝えることができるのは、制作上の価値だけであり、彼自身がどのような人間で、どのような生活を送ったかを問う必要はないということ。
 →作者の主張の逆(=制作と生活を切り離す)ですね。ダメ。
 
 
「どういうことか」                            
 
 今日は「どういうことか」から始めましたが、結局は対比で終了しました。
 「どういうことか」という問いかけは、普段は無視されています。そして、それで問題の意図がわかるのならばいいのです。でも問題が何を求めているのか、さっぱりわからないときには、ひとつの入り口として有効に機能します。
 つまり、「この文を本文中の言葉を用いて言い換えるのが基本なのね」という具合です。
 きちんと理解しておいてください。
" dc:identifier="http://kyoukoku.hyakunin-isshu.net/2012%E7%AB%8B%E6%95%99%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%83%A8/2012%E7%AB%8B%E6%95%99%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%83%A8%20%E5%95%8Ff" /> -->

2012立教大学文学部 問E

 段落を優先させるか、対比を優先させるか、難しい問題です。
 センター受験で考えるならば、基本方針としては段落優先の方がいいとは思いますが、それも絶対ではありません。
 そのあたりのことも考えながら、次の問題に進みましょう。
 
 
比喩について                               
 
(E) ―――線部(3)について。「甚しく少なく自分を食いちぎる仕事」とあるが、筆者はそれをどのようなものに喩(たと)えているか。本文中の表現を抜き出して記せ。
 
 求められていることを整理しておきましょう。
 問題が求めているのは、「筆者はそれをどのようなものに喩(たと)えているか」ということです。
 「喩えているか」というのは、比喩の問題ですね。
 
 余談になりますが、比喩について少しお話しておきましょう。
 私は問題を解くとき、〔同義反復・具体例・対比〕の3つをメインの方法として使用します。
 評論文の場合は、大抵これでいいのですが、小説の場合、もうひとつ、方法が追加されます。
 それが〔比喩・象徴〕です。
 問題文に比喩がまじっているのに、しらんぷりして、「〜はどういうことか、説明しなさい」というのは、よくある話です。ここで比喩の存在に気がつかなければ、なんとなく周辺を探すはめに陥ります(=時間が不足します)。
 比喩は常に意識しておいて、適宜、判断されなければなりません。
 
 比喩と判断したなら、次はどうするか。
 比喩というのは、「もののたとえ」です。ですから当然のことながら、喩えるモノと喩えられるモノと、2つの要素がそこには存在しているはずです。
 小さな子どもが、「あの雲、アイスクリームみたい」と言った場合、喩えるモノは「アイスクリーム」、喩えられるモノは「あの雲」なわけです。
 もうひとつ。「やくざは社会の癌である」という場合は、喩えるモノは「癌」、喩えられるモノは「やくざ」なわけです。
※「〜のようだ」「〜みたい」という比喩(この場合、前者)のあり方を「直喩法」、こうした表現を使わない比喩(この場合、後者)のあり方を「隠喩法」といいます。
 
 ここまでできれば、もうひとつ、喩えるモノと喩えられるモノとの共通性まで明らかにできるといいですね。アイスクリームの場合ですと「形」、やくざの場合ですと「有毒性、有害性」といった具合です。
 
 さて本題に戻ります。
 この問題は比喩であり、喩えられるモノを探すのが求められていることです。
 要するに、相手方を探せ、ということです。
 相手方を探すには、もう片方の分析が必要です。次に「甚しく少なく自分を食いちぎる仕事」を分析しましょう。
  
 
修飾ー被修飾の関係                            
 
 「甚しく少なく自分を食いちぎる仕事」という言葉は、ひとめで理解するには、ちょっと長すぎます。
 それに、「甚だしく少なく自分を食いちぎる」など、抽象表現も入っています。
 そのため、国語が苦手な人は「甚だしく少なく自分を食いちぎる」の方に目がいって、そこでうんうんうなることになります。
 でも、最初に見るべき箇所はそこではないんです。
 見るべき箇所は「仕事」です。
 
 なぜ「仕事」を見るべき箇所に、言い換えれば「中心」と考えるのか。
 それは「仕事」が被修飾語だからであり、「甚だしく〜」は修飾語だからです。
 修飾ー被修飾の関係の場合、優先されるべきは「被修飾語」であることは、既に言いました。
 解答は、必ず「仕事」に関連しているはずです。まずはここを押さえましょう。
 
 
傍線部を含む一文から段落、対比へ                     
 
 次に傍線部を含む一文を確認します。
 
 それを学問上のポレーミクに従うのに比べるなら、甚しく少なく自分を食いちぎる仕事である。
 
 ポレーミクとは論争のこと(注にあります)。主文は「甚だしく〜である」の部分。ただし、主語は省略されています。主語は「それ(は)」です。
 「それ」とは何か。課題文をみなければわかりません。傍線部を含む一文を引用します。
 
 ところが僕はいつかポアンカレーの『科学者と詩人』を読んだ。そしてそんな好きなポアンカレーがちっともおもしろくなかった。その本は何でも、亡くなったアカデミーの会員たちについて著者がいろいろな会合の席でした演説や雑誌に書いたものを集めて出来ていた。それらは、その物故した人たちの残した業績がどんなに大きかったか、それらの人たちが亡くなったいま我々はどんな大きな損失を感じなければならないかを主として説いていた。それらのいわば非常に優れた哀悼の言葉は、ポアンカレーの場合ある程度まで止むをえなかったのであろうが、亡くなった人々を褒めることに主眼をおいていた。そして何よりも先に当のポアンカレーは、アカデミーの最高の椅子に坐っている人であり、老人であり、そして彼の今までに打ち立ててきた学問上の業績は、彼が今その功績をたたえている物故した数々の科学者たちのそれに比べて優るとも劣らないのである。こういうポアンカレーにとって、亡くなった人たちの業績を褒めたたえることは困難な仕事でない。それを学問上の(注3)ポレーミクに従うのに比べるなら、(3)甚しく少なく自分を食いちぎる仕事である。学問上のポレーミクが、論敵の攻撃よりも自分自身の攻撃に懸っているのに反し、論敵の手で見事に暴露された自分自身の無力をどこまで逆に切り捌いて行くかに懸っているのに反し、甚しく余裕のある仕事である。ポレーミクにあるものは素樸であり、賞讃にあるものは優雅である。僕はポアンカレーのこの本を読んで人を褒めるということは何とむずかしいことかと感じ、俺は人をポアンカレーのように褒めることをしまいと考えた。
 
 「それ」の内容が「亡くなった人たちの業績を褒めたたえること」であることは、理解されると思います。
 つまり、問題文は、ポアンカレーにとって「亡くなった人たちの業績を褒めたたえること」は「甚しく少なく自分を食いちぎる仕事である」が、「甚だしく〜仕事」を比喩で表現している部分を指摘しなさい、といっているのです。
 
 ここで1つの等式が成立します。 
 
 ポアンカレーにとって「亡くなった人たちの業績を褒めたたえること」=「甚しく少なく自分を食いちぎる仕事」
 
 この一文は「AはBである」のタイプですから(A、Bがちょっと長いだけです)、A=Bの式が成立するわけです。
 ということは、「甚だしく〜」は、「ポアンカレーにとって「亡くなった〜」」と同じ内容、ということです。
 
 ここで対比に移動します。
 ポアンカレーは対比において、面白くない(=否定)とされる方でした。
 そして「甚だしく少なく自分を食いちぎる」というのも「文字通りの哀悼の言葉ではない、素朴ではない、中味がつまっていない、身を打ち込んでいない」に通じる内容です。
 つまり「甚だしく〜」は否定される側のことを表現した内容なのです。
 
 ですから、まずはこの段落の比喩を探し、比喩がなければ、対比を通してという条件のもとに、段落を越えて課題文全体を探せばよい、ということになります。
 
 さて、段落を探してみましょう。
 そもそも比喩表現自体がないですね。
 ということは、この段落には答えはないということです。
 
 対比のラインで考えましょう。
 ポアンカレーと同じく否定される方をあげておくと、他にツルゲーネフがいました。
 ツルゲーネフの段落を探してみます。
 
 ツルゲーネフとドストエフスキーとを比べてみると、僕はドストエフスキーの方が生活を叩き上げることを知っていたと思う。僕の考えによればツルゲーネフは到底ドストエフスキーに及び難い。ドストエフスキーは自分の肉体で物語をこさえた。ツルゲーネフは小説をこさえるために生活した。ドストエフスキーの作にはどこにもドストエフスキーの血が湛(たた)えられている。ツルゲーネフのには、ツルゲーネフの何かは湛えられていようが血は湛えられていない。ツルゲーネフならどこからひっくり返して読んでもいいのが、ドストエフスキーではそう行かない。ドストエフスキーはほかのものに手を出さなかったがツルゲーネフはあれやこれやと手を出した。ツルゲーネフには芸術だけが問題であって、芸術というものがそれあっての物種(ものだね)であるところの肝腎の人間生活はあまり問題でなかった。だから彼は彼の以前の制作から脱却して次ぎの制作へ行った。しかし以前の制作を生んだ彼の以前の生活から手を切ることをしなかった。だから彼の制作は次々と現われても、それを裏づける彼の生活が発展したということにならない。ガラス窓のガラスの色を次ぎから次ぎへと取り換えたに過ぎない。そいつは溜り水だ。そいつの打ち方は臭い。じきにたまらなくなる。で、そうなれば、作家がいくら大作を次々に書いたところでその作家の価値が高まったとはいえなかろうと思うのだ。そういうのではつまり、作家が制作に身を打ち込むということが本当に実現されないと思うのだ。制作に生活を引きずられるのでなしに、生活を発展させるためにどこまで制作を削り落すかが大切だと考えるのだ。 
 
 この段落を探すと、ツルゲーネフの仕事を論じる中に「そいつは溜り水だ」という比喩表現があります。
 「そいつ」の内容は、「ガラス窓のガラスの色を次ぎから次ぎへと取り換えたに過ぎない」です。
 でも、これ自体が比喩ですので、地の文(喩えられる方)を探さなければなりません(比喩をそのままの形でいじれば、誤読しかねません)。
 課題文のこの段落より「そいつ」の内容は、「以前の制作を生んだ彼の以前の生活から手を切ることをしなかった」です。
 これはツルゲーネフの「仕事」のあり方をいっているものです。
 よって、「仕事」のあり方を述べており、かつポアンカレーと同じく否定されている方の内容ということで、正解は「溜り水」となります。
 
 
むやみに段落を越えない                          
 
 今回扱った問題も、段落を越えて解答を導きだしました。
 でも、段落を無視したわけではありません。
 段落を尊重しながら、そこに必要なデータは存在しないと判断したから、段落を越えてデータを集めにかかったのです。
 また、むやみに課題文を探しまわるのではなく、対比を通じて、ピンポイントにデータを探しました。
 
 今回、私のとった手段は、非常にまわりくどいものと思われたかもしれません。
 国語が得意な人ならば、こうしたことはナチュラルに脳内で行っていることでしょう。
 でも国語が苦手な人は、たとえ面倒でも、しばらくは段落を中心にデータ収集を行ってほしいと思います。
 そのほうが、きっと高得点への早道だと思います。
" dc:identifier="http://kyoukoku.hyakunin-isshu.net/2012%E7%AB%8B%E6%95%99%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%83%A8/2012%E7%AB%8B%E6%95%99%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%83%A8%20%E5%95%8Fe" /> -->

カレンダー

03 2025/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30

フリーエリア

最新コメント

プロフィール

HN:
今日国庵主人
性別:
非公開

バーコード

ブログ内検索

P R