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今日の国語

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平成17年本試評論 本文

今日は平成17年本試評論を掲載しました
次回から解説に入ります



 カメラのレンズは人間の眼によって覗かれ、自由に操作されるかぎり、両者は同等に機能し、人間の眼のかわりをカメラのレンズが果たしていると思われがちだが、事実はきびしく相反する関係にあっただろう。人間の眼の機能を、見るという言葉で表現するのであれば、カメラのレンズのメカニックな機能は、見ることの死であると言わざるをえないほど、両者のあいだには測り知れない隔たり、深い断絶があったのである。

 われわれの眼がものをみているとき、すでにそこにある現実、さまざまな事物や出来事を個別的に見ているのではなく、それらが連続する総体としての世界を見ているのである。従って人間の視線は一瞬たりとも運動を停止し、非連続の状態にとどまることはできない。一点に眼をこらし、見つめているようではあっても、それは次の瞬間に新たなる運動を起こすための一時的な、かりそめの休止符にすぎない。
 たしかに一枚の絵の前にたたずみ、じっと見入っていることがある。だがそのとき、われわれの眼は果たしてなにを見ているというのだろうか。おそらくなにかを見ているという意識はなく、絵の空間の拡がり、タブローの表面にただ視線を滑らせ、行きつもどりつしながら反復を繰り返しているのである。それが絵に見入っているときの言いようのない浮遊感であり、気づかぬうちに作品に魅せられていることの神秘さであるのだが、絵に心を奪われていることが意識された瞬間、そうした忘我的な陶酔はかき消え、単なる事物としてタブローがそこにあるだけである。
 このように人間の生きた眼差しはこの世界の表面を軽やかに滑り、たえず運動をつづけており、なにかに見入ることによる視線の停止、非連続はあるかなきかの一瞬にすぎず、それが意識された瞬間には視線はすでに新たな運動を始めているのである。言葉をかえれば、そうした無用、無償の眼差し、おびただしい剰余の眼の動きに支えられて、われわれはこの現実とのたえざる連続を保ちながらこの世界のなかに行きつつあるのである。
 それとはまさしく相反して、Aカメラのレンズをとおしてこの現実、この世界を見ることは、こうした人間の眼の無用な動きを否定し、おびただしい剰余の眼がひとつの視点に注がれ、集中するように抑圧することであった。
 限りなく拡がる世界の空間から特定されたひとつの被写体を選び、画面に切り取り、それ以外の空間は存在しないかのように排除し、無視することを求める映画の映像は、人間の生きた眼が無意識のうちに呼吸するリズム、その無用な遊びを禁じるようなものであっただろう。しかも映画はそれに見入っているわれわれの時間といったものにまで介入し、きびしく制限を加えることによって見ることの死を宣言するに等しかったのである。
 同じカメラによる表現でありながら、一枚の写真と映画とを対比するならば、動く映像としての映画のありよう、その暴虐ぶりがより鮮明になるに違いない。現実にそこにあるものを映し出すかぎり、映画の映像と写真はともに複製の表現であり、現実をイメージによって捉え、抽象化する絵画とは異なると思われがちだが、それを見るという行為の側に立つならば、B写真と絵画は全く同質のものであっただろう。一枚の写真もまた絵のタブローと同じように見ているのであり、おびただしい剰余の眼差しに支えられて、いまわれわれはまぎれもなくその写真、その絵をみていることに気づくのである。
 だが映画はそうした眼差しの無用さ、無償性を許そうとはせず、あくまで特定の視点を強要し、さらにわれわれがそれに見入っている時間に至るまできびしく制限しようとする、独占的なメディアと言うべきではなかっただろうか。
 かつて映画は時間の芸術という美しい名前で呼ばれた時代があった。しかもそれは時間とスピードに魅せられ、幻惑された二十世紀を象徴する言葉でもあっただろう。映画はそのフィルムのひと齣、ひと齣が、一秒間に二十四齣という眼にはとまらぬ速度で動くことによって、網膜に残像がしるしづけられ、われわれはそれを連続する映像として見るのである。そのかぎりでは映像のひと齣、ひと齣に加えられた速度、時間を停止してしまえば、映し出されているものは一枚の写真とかわらず、絵のタブローと同様にわれわれの眼が自由にそれを見ることができるはずである。
 従ってC映画が映画であるのは、この速度を産み出す時間に依存しているのであり、それはフィルムのひと齣、ひと齣の動きのみならず、一時間、あるいは二時間と連続して映写される時間の流れを誰もが疑わず、停止しようとはしなかったからであった。そして息つく間もないスピードの表現であることが、わずか二時間たらずのあいだに人間の一生を描くことができた理由であり、神による天地創造の神話から一億光年の彼方の宇宙の物語まで映画は語りえたのである。
 しかしながら映画を見るという行為は、一瞬たりとも休むことのない時間の速度にとらわれ、その奴隷と化することでもあった。静止して動くことのない絵画や写真の場合は、さまざまな視点から自由に眺めながら、みずからの内面でゆっくりと対話することもできるだろう。だが映画は一方通行的に早い速度で流れる時間に圧倒されて、ついにはひとつの意味しか見出せない危険な表現であり、二十世紀の国家権力やコマーシャリズムが濫用し、悪用したのも、こうした映画における見ることの死であったのである。
 それにしても小津さんは新たなメディアとしての映画が持ちあわせた特権、その魅力をことごとく否定する。まさしく反映画の人であったと言うほかはない。カメラのレンズをとおして現実を切り取り、それを映像化することが世界の秩序を乱すと懸念する小津さんであれば、われわれの無用な、無償の眼差しを許そうとしない映画の独占的な支配を受け入れるはずもなかった。ましてや反復とずれによって気づかぬうちに移ろいゆくのが小津さんが感じる時間とその流れであり、二時間たらずの映画の上映で人間の一生が語りつくされたり、一億光年の宇宙の果てまで旅するような時間の超スピードぶりは、われわれの眼を欺くまやかしでしかなかった。
 だが小津さんは映画表現のありようにまさしく反抗しながら、それにもかかわらず限りなく映画を愛するという矛盾をみごとに生きぬいた人でもあった。そんためには映画のまやかしと戯れつづけ、共棲しまうといった、あの小津さんらしい諧謔ぶりがおのずから求められたのである。
 トーキー映画である『一人息子』にしても、科白や音響効果によって映画がいっそう表現力を高め、迫真性が加わることを嫌い、あえて意味が曖昧なままに浮遊する映像を、トーキー映画への戯れとして小津さんは試みたに違いない。事実、場末のゴミ処理場を望む野原に座って語りあう母親と息子のシーンは、たしかに科白は聴こえながら、対話しあっているとは思えないようにモンタージュされており、その視線もまたたがいに宙に漂い、すれ違うようにしてあてもなく拡散していく。従って母親と息子とが親しく語りあうことがドラマでありながら、画面に映し出されている俳優の姿かたち、人間としての存在のありようのほうが否応なく、よりくっきりと浮き彫りにされ、映画の筋立てとはかかわりなく、われわれの無用の眼差しによってそれは見られてしまうのである。
 おそらく小津さんがひそかに心に描いていたのは、D「見せる」ことよりも、われわれの無用、無償の眼差しによって「見られる」映像を試みることにあったのではないだろうか。映画にたずさわる人間であれば誰しもが、その表現の一方通行的である優位さを過信して、観客に映像を「見せる」ことに腐心するのだろうが、小津さんにかぎっては「見せる」ことよりも、観客によって「見られる」、あるいは「見返される」映像を実現するために心を砕いたのである。

 

問2 傍線部「カメラのレンズをとおしてこの現実、この世界を見ること」とあるが、「カメラのレンズ」の機能の説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。

①カメラのレンズは、現実のさまざまな事物や出来事を、個別的にではなく連続的に写し取る。
②カメラのレンズは、現実のなかから被写体を選び出し、そのありのままの姿を正確に写し取る。 
③カメラのレンズは、無限の現実から特定の対象を切り取ることにより、現実の世界を否定する。
④カメラのレンズは、連続する世界のなかから特定の部分を写し取り、それ以外の部分を排除する。
⑤カメラのレンズは、人間の手で自由に操作されるかぎりにおいて、人間の眼と同等の能力を持つ。


問3 傍線部「写真と絵画はまったく同質のものであっただろう」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。

①動く映像としての映画のあり方と対比すれば明らかであるが、写真と絵画は現実に流れている時間を静止させて複製しているという点で、見る者からすれば同じ性質であるということ。
②写真に写された世界はカメラによって切り取られ限定されているが、絵画も画家の眼により世界の一部がきりとられて画面に再現されている点で、同様に限定的なものであるということ。
③絵画を見るときの私たちの眼は一点を見つめているようであっても常に動きつづけているが、写真を見るときの私たちの視線もその上を浮遊し、自由に運動しつづけるものだということ。
④レンズでとらえた写真と画家の肉眼がとらえた絵画とは異質な点もあるが、どちらも奥行きのない平面における表現であり、私たちの視線はそれらの表面を漂うしかないということ。
⑤画家によって描かれる絵画と機会によって撮影される写真とは異質なものと思われがちだが、現実を何らかの媒介物に転写したものであるという点で、両者は同様であるということ。


問4 傍線部「映画が映画であるのは、この速度を産み出す時間に依存している」とあるが、筆者は「映画」が「時間に依存している」ことでどのような結果が生じたと考えているか。その説明として最も適当なmのを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。

①映画は、人間の一生をわずか二時間たらずで映し出すことを可能にしたが、観客をひきつける動く映像の迫真性によって、国家権力やコマーシャリズムに利用されてしまうという結果になった。
②映画は、一秒間に二十四齣というフィルムの映写速度で観客の眼差しを支配し、神話などの虚構まで表現することを可能にしたが、そうした錯覚によるまやかしは見ることの死をもたらした。
③映画は、限られた時間のなかで壮大な時空間を描き出すようなことを可能にしたが、映画に見入っている時間をきびしく制限しようとすることで、観客の眼差しを抑圧してしまうことになった。
④映画は、息つく間もないスピード感に満ちた物語や広大な宇宙の物語を表現することをも可能にしtが、ゆるやかに移ろいゆく時間を、反復とずれによって表現することが不可能になった。
⑤映画は、画像が連続する新しい芸術として発展したが、ひとたびその速度に慣らされてしまった観客には、絵画や写真のように静止した画像と内面でゆっくりと対話することが困難になった。


問5 傍線部「「見せる」ことよりも、われわれの無用、無償の眼差しによって「見られる」映像を試みることにあった」とあるが、どういうことか。

①スピード感を持たせた編集によって観客に一方通行的に映像を見せるのではなく、ゆるやかなテンポを持たせた編集によって、観客が余裕を持って画面の細部まで見ることができるような映像を試みること。
②時間の流れに従属させることで観客の視線を限定するような映像を見せるのではなく、観客それぞれの自由な見方に任せることによって、単一の意味で受けとられてしまわないような映像を試みること。
③特定の視点から撮影することでそれ以外の空間が存在しないかのような映像を見せるのではなく、人間の眼がさまざまな空間を自由に見ることができるのと同様に、多様な角度からの映像を試みること。
④作り手の表現意図の伝達を目的としてすべての観客が同じ意味に到達するような映像を見せるのではなく、さまざまな意味合いを含んだ複雑な内容によって、個々の観客が自由に解釈できる映像を試みること。
⑤フィルムのひと齣ひと齣を連続して映写することで観客の視線をくぎ付けにする映像を見せるのではなく、画面に映し出されていない場所やその舞台裏についても、観客が想像力を発揮できる映像を試みること。

 

問6 本文の内容に最もよく合致するものを、次の①~⑤のうちからひとつ選べ。
①ひとつの意味を強調するという性質ゆえ、映画は国家権力やコマーシャリズムに悪用されるに至ったが、そのような事態に対して、小津安二郎の映画は、戯れや諧謔に満ちた自由な筋立てによって抵抗している。
②長大な時間の中で起こるできごとを二時間程度で表現できる点で、映画は日常的な時間の制約から自由な芸術であるが、小津安二郎の映画は、そのような自由を否定し、現実の時間の流れに従うように作られている。
③絵画や写真を鑑賞する場合と比べれば明らかなように、映画は観客の眼の運動を制限してただひとつの筋立てに従わせようとするが、小津安二郎の映画は、そのような制限を取払い、筋立てが複数化されている。
④カメラのレンズは比べて自由であるはずの眼の運動を制限することによって、映画は観客に特定の視点を強制するが、小津安二郎の映画は、そのような強制をまぬがれた見方を観客ができるように作られている。
⑤一方通行に早い速度で流れる時間を強いることで、映画は観客を独占的に支配するという一般的性質を持っているが、小津安二郎の映画は、そのような特質を徹底することで、かえって映画の限界を突破している。

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2 問題編

2 問題編

 次に問題を具体的にみていきましょう。

 問題を見ていく際の約束事は以下のとおりです。

 

1センターは段落で問題作成する……不用意に段落を離れるないこと

2 傍線部のあり方
  2-1 傍線部を含む一文……線がひかれてないから、わからなくなる
  2-2 主語抜け

3 問題のあり方
  3-1 どういうことか……本文中の言葉を用いてわかりやすく言い換える
  3-2 なぜ……主語が共通することを基本とする

4 肯定と否定……すべての主張は肯定形である(=否定文は肯定文に変換して考える)

5 否定文は肯定文に修正して考える

 

 問題を見ていく中で、少しずつ解説していきます。
 

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複文、修飾−被修飾の関係

・複文
 文が修飾語として文中に含まれている状態にある文をいいます。ややこしいですが、簡単なことです。例えば、「昨日から始めたレポートがやっと完成した」というのがそれです。「昨日から始めた」が「レポート」にかかる修飾語として存在しています。

 要するに文が修飾語として含まれていれば、「複文」というのです。

 複文の扱い方は、次に述べる「修飾-被修飾の関係」に準じますので、ここでは省略します(複文という概念は、修飾-被修飾の関係に飲み込まれてほとんど使われない(=ここではどうでもいい概念である)ことも付言しておきます)。


・修飾-被修飾の関係
 これまで述べてきました単文・重文・複文というのは、いわば「文の骨格を探る」考え方です。文というものはダラダラとしたものではなく、メリハリのあるものであるものだから、正しく強弱を見分けましょう、ということです。

 骨があるのならば肉も存在するわけで、肉に相当するのが修飾語です。

 修飾語は使いこなせれば非常に便利なのですが、複雑に用いれば、読者を混乱させる原因にもなります。受験で用いられる文には、この種の修飾語過多の文が少なくありません。現代文が嫌われる一因です。

 たび重なるゲームのモデルチェンジに関心を失った子どもたちは、ふと戸外での遊びを思い出すことによって、管理者会のコスモロジーとは異なるコスモロジーに参入することになる。

 平成21年本試評論問4の選択肢①の文です。
 この文の修飾語を示しておきますと、以下のとおりです(下線部が修飾語です)。

 たび重なるゲームのモデルチェンジに関心を失った子どもたちは、ふと戸外での遊びを思い出すことによって管理者会のコスモロジーとは異なるコスモロジーに参入することになる。

 これら修飾語を保留(=とりあえず省略)して考えてみると、この複雑な文は、非常に単純になります。

 →子どもたちは、コスモロジーに参入することになる。

 この場合は選択肢の文章ですが、選択肢の文章が修飾語でごちゃごちゃしている場合は、まずこのレベルまで落として(=単純化して)、相互比較すべきでしょう。参考までに、問4の選択肢を修飾語を外した状態で提示しておきます。

  ①子どもたちは、コスモロジーに参入することになる。
  ②子どもたちは、可能性を手にすることになる。
  ③子どもたちは、コスモロジーを身体性のうちに見いだそうとしている。
  ④子どもたちは、遊びを楽しめるようになっている。
  ⑤子どもたちは、熱意を失ってしまっている。

 どうでもいいことかもしれませんが、問題作成の途中過程が見えてきますね。「子どもたち」と「コスモロジー」との関係に着目し、正解を作る。あとはそのバリエーションを作り、それぞれに修飾語を与え肉付けをする。ただそれだけのことです。

 それと、これも注意しておかなければいけないのですが、修飾語を保留する際、妙に修飾語の範囲を気にする人がいますが、過度に厳密にする必要はありません。アバウトで結構です。

 要は「ごちゃごちゃしていてわかりにくい」を、とりあえず整理することが目的です。修飾-被修飾の関係を用いるということは、その「整理」の部分にあたるわけで、これはひとつの「方法」にすぎません。私たちの目的は「正解を得る」ことにあるわけで、極論すれば「正解を得る」ための方法は何でもいいわけです。「現代文が得意」ならば、こんな方法を用いる必要は全くないのです。

 「方法」は「方法」、「目的」は「目的」。方法と目的とは、きちんと区別されなければなりません。もし混同して、方法に過度に敏感になりすぎるならば、その代償は時間浪費という結果を導き出します(かといって、アバウトすぎるのも困るのですが)。

 本論に戻りましょう。

 修飾-被修飾の関係で面白いのは、修飾-被修飾の関係は、容易に主語-述語の関係に転化されるということです。

  彼が本を持ってきてくれた。その本は……

 こういう文があったとしましょう。2つの文が提示されていますが、この2つの文はもちろん、ひとつにまとめることができます。

  →彼が持ってきてくれたその本は……

 1つにまとめる時、片方の文章は修飾語として、もう片方に含まれてしまうのです。
 中学校で初めて関係代名詞を学んだときのことをおもいだしてください。初めて関係代名詞を学んだとき、これと同じような文章操作をやりませんでしたか?

 その経験を、今度は現代文で生かすのです。

 さて、このこと(=修飾-被修飾の関係は、容易に主語-述語の関係に転化される)が何を意味するか。もう一度、前掲選択肢を確認しておきましょう。

 び重なるゲームのモデルチェンジに関心を失った子どもたちは、ふと戸外での遊びを思い出すことによって管理者会のコスモロジーとは異なるコスモロジーに参入することになる。

 「たび重なるゲームのモデルチェンジに関心を失った子どもたち」は、逆にこうも言えますね。
  →「子どもたちは、たび重なるゲームのモデルチェンジに関心を失った」 

 現代文が苦手という人は、これをやってしまうのです。そして次にこういう問いを自らに発します。
  →果たして「子どもたちは、たび重なるゲームのモデルチェンジに関心を失った」のか?

 こうして課題文に戻って該当箇所を探し始めます。部分を積み重ねることによって、全体へのアプローチをはかる方法、といってよいのでしょうが、これでは時間がかかりすぎます。

 続けましょう。

  ふと戸外での遊びを思い出すことによって、 
   →(子どもたちは)「ふと戸外での遊びを思い出す」のか?
   →「ふと」なのか?(←これは「本当にどうすればいいかわからない」人がやります)

  管理者会のコスモロジーとは異なるコスモロジー

 これは、主語-述語に転化されることはないでしょう。なぜなら転化すれば「コスモロジーは管理者会のコスモロジーとは異なる」となり、なお一層、何が何だかわからなくなるからです(ここは対比で処理するところなのですが、省略します)。   

 問4の選択肢全文をあげることはしませんが、いずれも同じ構造をとっています。ということは、ひとつの選択肢で確認事項が3つあったとして、全部で5つの選択肢ですから、合計の確認事項は15個、しかもセンターは1問につき、長くても3分以内に片付けなければ終わりませんので、180秒を15で割ってみると……1つの確認事項につき、12秒!!

 無理ですね。

 しかも、この方法は文を読んでいるように見えますが、実は読んでいません。
 文のパーツを確認しただけで全体を見る視点が欠落している、いいかえると、文をバラバラにしただけだからです。
 無理な時間設定の上に、不安定な結論、しかもこれに本人の情熱が加わったとすれば、現代文が大嫌いなるのは当然です。情熱は嫌悪に変わるでしょうから。

 修飾-被修飾の関係は、実は奥の深い「方法」なのです。

 

文型(単文・重文)

1-4  文型

 英語では基本文型(五文型)がやかましく言われていますが、残念ながら、日本語(国語)では、そうした事項はほとんど扱いません。どうしてなのでしょうか?理由は私にもよくはわからないのですが、一応のことは最低限知っておくべきでしょう。なぜなら、すごく便利だからです。

 

 説明を始める前に付言しておきますが、私は文法の説明に際して、英文法のあり方も参考にします。学術的には問題とされるところもたくさんあります。専門家の立場からすれば、でたらめにしか思われないかもしれません。説明されえないところも、時々表面化します。例えば「主語」。日本語に主語は存在するか否か、これは未だに解決されていない問題です。外国人の方に日本語を教えている先生の中には、日本語では主語という発想は有害だと考えておられる方もいるようです。
 

 でも私にとって、学術的に正しいか否かは、あまり問題ではありません。なぜなら、問題を解くに際して、有効か否かこそが問題だからです。役に立つなら、それはそれでいい、「河清百年を待つ」つもりはありません。これが私のスタンスです。そのつもりでお読み下さい。

 

・単文

 英語で最も基本的なのは、第1文型SVです。日本語で言えば、主語と述語だけの文。「花が咲いた」がその例です。第一文型の次に、英語では第2文型(SVC)、第3文型(SVO)ときますが、日本語にあっては、これほど厳密な区分はないと考えます。ですから、第3文型(SVO)に代表させておきます。「彼はリンゴを食べた」がその例です。
 

 第4文型、第5文型は、国語の問題を考える上で、さして必要とは思えませんので、省略します。
 

 すると、日本語の文型の基本中の基本は、第1文型(SV)と第3文型(SVO)の2種類ということになりますが、それで結構です。あまりにも単純すぎるのでは、と考えるむきもあるかもしれませんが、私はこれだけで十分と思っています。


・重文

 「重」は「かさなる」時は「チョウ」、「重い」時は「ジュウ」と読むことになっている(中国語の発音に由来します)ので、「チョウブン」と読むのが正しいのですが、「ジュウブン」と認識している人も多いことでしょう。
 

 発音談義はともかく、重文とは、単文と単文とが結びつけられた文のことです。
 「雨が降ったので、傘をかりてきた」とか、「ようやく仕事がおわったので、気持ちが少し楽になった」とかが、それです。


 重文では、要素として(単文をいくつ結びつけてもいいのですから)最低2つあるわけで、これが面倒のもとになります。確かに単純な内容、日常的な内容なら別段問題はないのですが、内容がやや複雑になってくると、どこにウェイトをおけばいいのか、わからなくなってしまうのです。

 

感覚対象を秩序づけ普遍的に理解しようとする思惟の活動が自我意識を形成しているのだとすると、睡眠状態においては感情や意志の活発な働きが思惟の活動を妨げるので、自我の一貫性が保証できないことになる。

 

 これは平成20年追試の問3選択肢①です。非常にややこしい文であり、逐一確認していくと、疲れてしまいます(そして時間を不要に使うことになってしまいます)。

 こんなときこそ、文法知識が重要になるのです。

 この文は大雑把にいって3要素(3つの文)から成立しています。

 

 A:感覚対象を秩序づけ普遍的に理解しようとする思惟の活動が自我意識を形成しているのだとすると、   
 B:睡眠状態においては感情や意志の活発な働きが思惟の活動を妨げるので、


 C:自我の一貫性が保証できないことになる。


 この中で、確実に抑えなければいけないのは、Cです。

 どうしてCを抑えなければいけないのか。それは、「そういうものだから」です。説明しましょう。


 「雨が降ったので、遠足は中止になりました」と聞いて、生徒達はがっかりしたとしましょう。

 生徒達はどうしてがっかりしたのでしょう?「雨が降ったから」ですか?それとも「遠足が中止になったから」ですか?もちろん「遠足が中止になったから」です。平常授業の時に雨が降ったとしても、これほどがっかりはしないでしょう。

 もうひとつ。

 「万一雨が降ったなら、遠足は中止です」という連絡がありました。この連絡の中で重要なのは「万一雨が降ったなら」でしょうか?それとも「遠足は中止です」でしょうか?

 「万一雨が降ったなら」と答える人も多いでしょうが、正解は「遠足は中止です」の方です。

 この連絡にあって「遠足は中止になる場合がある」ということが、何よりも優先されなければ、意味がわからないからです。あなたの携帯に友達から、「万一雨が降ったら」とメールが来たなら、「雨が降ったら何なの?」とちょっといらいらしませんか?

 でも「遠足は中止です」だけなら、文自体の意味は明白なはずです。その上で、「あいつ、頭おかしいんじゃないの?」とか「何のこと?」とか思ったりするわけです。でもそれは文の責任ではありません。シチュエーションの問題なわけです。

 

 つまり重文にあっては、まる(句点)に近い文が、何よりも優先されるべき文なのです。

 単文と単文とを結びつけるときに、接続助詞が頻用されますが、接続助詞を利用して説明するならば、「接続助詞のついている文は、中心になりえない」といってもよいでしょう。

 そして重文にあって中心になっている文のことを「主文」、それ以外の文を「従文」といいます(用語は今後の説明で使いますので、覚えておいてください)。


 重文の説明はこれで終わりですが、もう少しお話しましょう。

 引用しました平成20年追試の問3ですが、選択肢の中から主文だけをとりだしてみましょう。

 

  ①……自我の一貫性が保証できないことになる。

  ②……自我の連続性が揺るがされることになる。

  ③……自我が一貫性を保つ力を失うことになる。

  ④……自我の連続性が保たれないことになる。

  ⑤……自我はかえって安定した一貫性を乱されることになる。

 「自我の一貫性」が①と③と⑤、「自我の連続性」が②と④。出題者は、「自我」を問題に設定し、「一貫性」「連続性」をとりあげ、主文を5つ準備したあとに、文字数を稼ぎながら選択肢を作ったのではないかと思われます。

同義反復と具体例

1-2 同義反復
 

 要するに「繰り返し」のことです。

 ただし、ただの「繰り返し」じゃありません。同じ意味内容の繰り返しです。

 出口汪さんが「大切なことは形をかえて繰り返される」と言っていたと思うんですが(記憶間違いならごめんなさい)、まさしくそのとおり。大切なことは形をかえて繰り返されます。最初に軽く全体をまとめるようなことをいっておき、次にその内容を深化させていくというのは、文章を書く人のよく使う方法です。(といいながら、同義反復を使ってるのがわかりますか?)

 でも、いちいち「大切なことは……」とフレーズでいうのが面倒なので、漢語を使って「同義反復」と表現することにしました。

 また、思考のツールとして「対比」に並べるのに「大切なことは……」では、長過ぎますし、使いにくいと思ったからでもあります

 


1-3 具体例
 

 これは、説明の必要はありませんね。

 中学校では、具体例は非常に多用されるのですが、高校では激減して、代わりに?対比が頻用されるようになります。 ややこしい文章中に具体例が入り込むと、逆にわかりにくくなる場合もありますので、注意が必要です。

 

この2項目は、問題の解説をするなかで扱っていきましょう。

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