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2012立教大学文学部 問D

 あけましておめでとうございます。
 正月早々、早速ですが、はじめましょう。
 
 
「対比」の問題                              
 
 問題を引用します。
 
(D) ―――線部(2)について。「僕」はなぜ、『科学者と詩人』を読んだときポアンカレーがちっともおもしろくないと感じたのか。その説明として最も適当なもの一つを、次記各項の中から選び、番号で答えよ。
 
 「ポアンカレーがちっともおもしろくないと感じた」理由は何か?これが問題の求めていることです。
 そして、ここのところの対応が、この問題の最も重要なところになります。
 
 既に対比を抑えているのならば、
 「ポアンカレーが面白くない」=「ソスノウスキーが面白い」と変換できるはずです。
 
 もし対比を抑えていなければ……課題文をさすらうことになるのでしょう。
 
 前々回扱った対比をもう一度とり出してみましょう
 
・ポアンカレー……面白くない……(下記の反対)
・ソスノウスキー…面白い…………文字通り哀悼の言葉、素朴、中味がつまっている、身を打ち込んでいる
 
 この図式を用いるならば、ポアンカレーが面白くない理由は、ポアンカレーが「文字通り(の)哀悼の言葉ではない、素朴ではない、中味がつまっていない、身を打ち込んでいない」から、ということになります。
 あとはこのラインにそって、選択肢を確認していけばよいわけです。
 
 選択肢は以下のとおりです。
 
1 すでに学問上の権威と化したポアンカレーが、自分の論敵を褒めたたえることで、逆に自らの地位を高めようとしているように感じられたから。
2 生前は学問上のライバルであったはずの科学者が亡くなったとたんに、態度を豹変させて褒めそやすポアンカレーのしたたかさが透けてみえたから。
3 亡くなった人に対して、どのような言葉で哀悼の意を表すれば周囲が納得するかを知悉(ちしつ)しているポアンカレーの態度が傲慢に感じられたから。
4 亡くなった人間の存在性よりも、残された自分がどれほど大きな損失を感じているかを強調するポアンカレーの計算高さが鼻についたから。
5 自分は少しも心を乱すことなく、亡くなった論敵を上手に褒めたたえるポアンカレーのもの言いが、緊張感に欠けているように思えたから。
 
  主文をとり出してみましょう。
1 ポアンカレーが、逆に自らの地位を高めようとしているように感じられたから。
2 ポアンカレーのしたたかさが透けてみえたから。
3 ポアンカレーの態度が傲慢に感じられたから。
4 ポアンカレーの計算高さが鼻についたから。
5 ポアンカレーのもの言いが、緊張感に欠けているように思えたから。
 
 「文字通り(の)哀悼の言葉ではない、素朴ではない、中味がつまっていない、身を打ち込んでいない」とは
1 自らの地位を高めようとしていること
2 したたかさが透けてみえること
3 傲慢であること
4 計算高いこと
5 緊張感に欠けていること
 
のうちのどれに該当するかを考えればいいわけです。
 
 解答はもちろん、5ですね。
 
 そして残りの部分を確認して、最終決断すれば完了です。
 
5 自分は少しも心を乱すことなく、亡くなった論敵を上手に褒めたたえるポアンカレーのもの言いが、緊張感に欠けているように思えたから。
 
 「自分は少しも心を乱すことなく、亡くなった論敵を上手に褒めたたえる」は「文字通り(の)哀悼の言葉ではない」の言い換えであることは、言うまでもないでしょう。解答はあきらかに、5です。
 
 
対比は段落を越える(センターとの比較)                  
 
 センター試験は段落を中心に考えることがポイントであることは、以前にお話したことと思います。
 ところが、今回は段落を全く扱うことなく、対比のみで問題を解きました。
 問題を解く際には「段落」を中心にしたほうがいいのでしょうか?
 それとも「段落」はほどほどにしておいたほうがいいのでしょうか?
 
 私なりの見解を以下に述べておきます。
 
 私は、この問題に対する普遍的な解答は、おそらく存在しないと考えています。
 問題によっては段落を中心に考えた方がいいものもあれば、そうじゃないものもあります。
 それは問題を解いて始めて理解されることでもあります。
 つまり、問題を解く以前に、その問題がどちらのタイプに属するかを判断するのは困難だということです。
 
 ではどうすればいいのか。
 対応方法は2つです。
 
 1つ目は、過去問を研究することによって、最初から該当大学の問題のタイプを判別しておく方法です。
 対比や段落に注目しながら、問題を「調査(単に解くというのではなく))していけば、その大学の問題が、どちらの方に偏っているか、理解できるはずです。その調査結果を念頭において、本番に臨むのです。
 
 2つ目は、それでも段落を中心に考えることを「最も基本的なパターン」としておくことです。
 それは(結果として)センター試験で採用されている方法だからです。
 あくまで経験による確率論なのですが、段落を中心に考えるセンター型のあり方の方が本番では有効のように思えますし、なにより方法論を単純化しておくのは、思考のブレをとるために有効な方法だからでもあります。
 そしてその上で、時々段落を飛び越える時がある、と認識しておくのです。
 
 段落を飛び越えるか否か、ここも判断の必要があります。
 わからないから、といって周辺をウロウロと眺めていても、正解へはたどりつかないことでしょう。
 段落を飛び越えるには、それなりの条件が必要です。
 1つは、今回のような対比の場合。この場合は段落を飛び越えます。
 もう1つは、キーワード。これはいずれお話しましょう。
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2012立教大学文学部 問C

 最初に昨日指摘しておいた対比を再掲しておきます。
 形はイマイチですが、試験中はこんなもんだろうと考えて、昨日のを整理せずにだしておきます。
 
共通点=どちらも故人のことを書く
・ポアンカレー……面白くない……(下記の反対)
・ソスノウスキー…面白い…………文字通り哀悼の言葉、素朴、中味がつまっている、身を打ち込んでいる
 
・賢い人……車輪の発明など、感謝状なし、仕事の価値を知っている、(下記の逆)
・(そうでない人)……文字となって残る仕事だけが仕事と思っている、(感謝状あり?)
 
 あとドストエフスキーはソスノウスキー型で生活をうちこんでいる、というのもありました。
 
 これらを踏まえながら、問題を解いていきましょう。
 
 
対比から独立している問題                         
 
(C) ―――線部(1)について。なぜ「素樸」はそれについて語ることができないのか。その説明として最も適当なもの一つを、次記各項の中から選び、番号で答えよ。
1 素樸とは、愚直に真理を追求する態度であり、それがどのような結果になろうと関係ないから。
2 素樸とは、寡黙さのなかに蓄えられた熱意であり、言葉で語らないこと自体に意味があるから。
3 素樸とは、周囲の誤解を恐れず、他人からみれば馬鹿々々しく思える仕事に没頭することだから。
4 素樸とは、目の前の仕事に全身全霊で打ち込み、脇目もふらずに瞬間を駆け抜けることだから。
5 素樸とは、自分をせっぱつまった状態に追い込む力であり、当人にもその状態を説明できないから。
 
 問題文が求めているのは、「なぜ「素樸」はそれについて語ることができないのか」ということです。
 これは対比とは関係ないですね。
 素直に傍線を含む一文を確認し、段落へと拡げていけば、大抵は解答できるはずです。
 該当段落を引用しておきましょう。
 
 ところで、僕は今ここでその素樸についてお喋りしようというのだが、考えてみるとてれ臭くないわけではない。なぜといって、素樸はそれについて語ることのできないものだから。それについて語ることは素樸でないだろうから。それを敢えてしようとするのだから。第一、素樸が好きだとか何だとかいってみても、それは理窟はいろいろとつけられようけれど、個人の好みや、生理的関係にもよるのだろうし、たとえそれを僕が芸術上の信条としているとしても、結局それは僕のひとり合点のことで、ひとり合点のことなら他人に押しつけないがいいのだから。
 
 傍線は「なぜといって」以外は全部引かれています。そして当然のことですが、この一文から、「なぜ「素樸」はそれについて語ることができないのか」、明らかにすることはできません。
 これ以上何も得ることがないと判明したら、そこで傍線を含む一文の処理は終わり。次は段落です。
 
 ここで注意しなければいけないのは、不用意に別の段落に行かないことです。
 経験からの確率論ですが、別の段落を見ても、時間の無駄に終わることがほとんどです。
 
 段落内部をみると、特徴のある表現がありますね。
 「なぜといって、素樸はそれについて語ることのできないものだから。それについて語ることは素樸でないだろうから。それを敢えてしようとするのだから。」という部分です。「から」が連続しています。
 この「〜だから」は原因を示す言葉ですが、ならば結果に該当するのは何か?
 「てれ臭くないわけではない」です。主語をいれて整理しておくと、素朴について話すことは、(少々)てれ臭い、というわけです。
 なぜてれ臭いかといえば、「なぜといって〜」となるわけです。
 
 少々くどくなりましたが、ここで注意してほしいのは、理由と結果との関係がわかりにくい、ということです。
①素樸はそれについて語ることのできないものだから。
②それについて語ることは素樸でないだろうから。
③それを敢えてしようとするのだから。
 これらと「てれ臭い」と、どう関係するのでしょう?
 
 「てれ臭い」を念頭において整理してみると、
①素朴はそれについて語ることのできないものであって、②それについて語ることは素樸でないのだけれど、③それを敢えてしようとするのだから(てれ臭い)
 となります。つまり、「てれ臭い」理由は③にあるわけです。そして③を支えるものとして、①②があるわけです。
 要するに、重文を気取ってばらばらにしているだけです。
 
 このラインに沿って考えてみると、答えは「それについて語ることは素樸でないだろうから」となりますね。
 つまり、素朴について語ること自体、すでに素朴ではないから、というわけです。
 ここから選択肢を選んでいきます。
 難しいですが、対象に集中して、それだけのことを一心不乱に考え、没頭することが、作者のいう素朴でしょう。
 ここから解答は4になります。
 
1 素樸とは、愚直に真理を追求する態度であり、それがどのような結果になろうと関係ないから。
→対象に集中する態度が「素朴」であり、その対象自体は限定されていない。つまり対象は「真実」とは限らないからダメ
 
2 素樸とは、寡黙さのなかに蓄えられた熱意であり、言葉で語らないこと自体に意味があるから。
→素朴を「熱意」と捉えてよいのか、判断に苦しみますが、後の「言葉で語らない」云々は「対象に集中する」ことと関係しないのでダメ
 
3 素樸とは、周囲の誤解を恐れず、他人からみれば馬鹿々々しく思える仕事に没頭することだから。
→「周囲の誤解」とありますが、「周囲」には言及されてません。ダメ。
 
4 素樸とは、目の前の仕事に全身全霊で打ち込み、脇目もふらずに瞬間を駆け抜けることだから。
→前半部は全く問題なし。後半部は表現上、「瞬間(=時間)」の登場で正誤の判断に苦しみますが、一般常識的にはOKでしょう。ただし、一般常識とはいえ、文脈にあるかないか、確認できない事項を使用するのは結構危険なので、保留。
 
5 素樸とは、自分をせっぱつまった状態に追い込む力であり、当人にもその状態を説明できないから。
→「集中すること」は必ずしも「自分をせっぱつまった状態に追い込む」ことではありません。ダメ。
 
 以上で相対的に解答は4、となるわけです。
 
 
でも対比につながっている問題                        
 
 今回は「素朴について語ること自体、すでに素朴ではないから」ということから、「集中」というタームを導き出したのですが、正直いって、これは受験生には難しいと思います。
 実はもうひとつ別の方法があります。
 それは対比を使う方法です。
 
 といっても、対比をそのまま使うわけではありません。
 全体を「大雑把に」読んで対比でまとめた時のデータを用いるのです。
 
 身を打ち込んだ仕事で、中味が詰まっている仕事を行うには、生活をどこまで叩き上げるかが重要である。筆者はこうした態度をとる人を「賢い人」と称し、仕事の価値を知っている人とする。また、こうした人たちの仕事に対する態度を、筆者は「素朴」と称している。
 
 ポイントになるのは前半の「身を打ち込んだ仕事で、中味が詰まっている仕事」の部分です。
 ここにはソスノウスキーやドストエフスキーなどが、具体例として盛んに引用されていました。これらは作者が評価している事項ですが、そもそも「素朴」は作者が評価している事項ですので、「作者が評価している」の一点で、両者は結びつくのです。
 つまり、「素朴というのは生活を議論するレベルまで、仕事に身を打ち込むことであり、中味を詰め込むこと」となります。これと「素朴について語ること自体、すでに素朴ではないから」を合わせて考えると、こうなりますね。
 
 1 素樸とは、愚直に真理を追求する態度であり、それがどのような結果になろうと関係ないから。
→対象に集中する態度が「素朴」であり、その対象自体は限定されていない。つまり対象は「真実」とは限らないからダメ
→同上。ここは変化なし
 
2 素樸とは、寡黙さのなかに蓄えられた熱意であり、言葉で語らないこと自体に意味があるから。
→素朴を「熱意」と捉えてよいのか、判断に苦しみますが、後の「言葉で語らない」云々は「対象に集中する」ことと関係しないのでダメ
→「寡黙さのなかに蓄えられた熱意」は最後の方に述べられている「賢い人」の話から出てきた内容ですね。「文字となって残る仕事だけが仕事と思っている」の反対として登場したのでしょうが、「文字となって残る仕事だけが仕事と思っている」の反対は「文字となって残る仕事だけが仕事とは思っていない」であって、「寡黙さの……」ではない。ダメ。後半部に関しては同上。
 
3 素樸とは、周囲の誤解を恐れず、他人からみれば馬鹿々々しく思える仕事に没頭することだから。
→「周囲の誤解」とありますが、「周囲」には言及されてません。ダメ。
→「周囲の誤解」も同じく「賢い人」の話から出てきたのでしょうが、「周囲が知らない」ならわかりますが、「周囲の誤解」は登場してません。ダメ
 
4 素樸とは、目の前の仕事に全身全霊で打ち込み、脇目もふらずに瞬間を駆け抜けることだから。
→前半部は全く問題なし。後半部は表現上、「瞬間(=時間)」の登場で正誤の判断に苦しみますが、一般常識的にはOKでしょう。ただし、一般常識とはいえ、文脈にあるかないか、確認できない事項を使用するのは結構危険なので、保留。
→「脇目もふらずに瞬間を駆け抜けること」はドストエフスキーのあとのところで、「僕の考えによれば、このすべての瞬間にいっさいを叩き込むという態度こそ最も素樸な態度なのだ」とありますので、ここからとったものでしょう。
 
5 素樸とは、自分をせっぱつまった状態に追い込む力であり、当人にもその状態を説明できないから。
→「集中すること」は必ずしも「自分をせっぱつまった状態に追い込む」ことではありません。ダメ。
→これもおそらくドストエフスキーの生活の話あたりに由来するものでしょう。「いっさいをぶちこむ」云々を曲げて解釈して「せっぱつまった」としているだけです。ダメ。
 
 
最初にくる総合問題                             
 
 こうして見ると、この問C(内容読解問題の初問)は全体をまとめるための総合問題、といえそうです。
 最初に全体をまとめる総合問題がくるのか?と考える人もいるでしょうが、実際、きてます。
 センター試験では、初問で総合問題がくることは、まずありえませんが、私大ではアリです。
 私大の受験生は、過去問を研究して、最初に総合問題がきているかどうか、よく判断してください。
 
 そして、更に理解しておいてほしいことが2つあります。
・直接に対比とは関係しないように見えても、問題を考えるうちに対比で得られた情報を用いることがあること。
・問題を解くときには、まず段落レベルで十分に考えること。
 
 今日はここまで。
 明日は休みます。
 よいお年を。
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2012立教大学文学部 課題文の分析

 今日は問題に入らず、課題文の分析を行いましょう。
 現代文特有の問題として、課題文を先に読むか、問題を先に読むか、というのがあります。
 どうでもいいことなんですが、ときどき質問されます。
 
 私は先に課題文を大雑把に読み、それから問題にとりかかります。
 「課題文が先」派です。
 これは別にこだわってのことではありません。いつの間にか、そうなっていただけです。
 
 では「大雑把」にとはどういうことか?
 それは「対比をさがす」ということです。
 
 私は最初の一読のとき、対比を探して全体構造を単純にしてしまうようにしています。
 内容については、多少わからなくてもいい、と思っています。
 細かいところは、語句のあり方に多少注意することはあっても、基本的に「ま、いいか」とパスします。
 それで一応は大丈夫です。
 なぜ大丈夫なのか。
 対比の全体構造が判明すると同時に、私は課題文の内容を「大雑把に」理解しているからです。
 全体構造の判明は、理解につながります。
 具体的に見ていきましょう。
 
対比の発見に集中                             
 
 課題文を確認していきましょう。
 今日は問題は扱いません。 
 
 だいたい僕は世の中で素樸というものがいちばんいいものだと思っている。こいつはいちばん美しくていちばん立派だ。こいつは僕を感動させる。こいつさえ捕まえれば――と、そう僕は年中考えている。
 ところで、僕は今ここでその素樸についてお喋りしようというのだが、考えてみるとてれ臭くないわけではない。なぜといって、素樸はそれについて語ることのできないものだから。それについて語ることは素樸でないだろうから。それを敢えてしようとするのだから。第一、素樸が好きだとか何だとかいってみても、それは理窟はいろいろとつけられようけれど、個人の好みや、生理的関係にもよるのだろうし、たとえそれを僕が芸術上の信条としているとしても、結局それは僕のひとり合点のことで、ひとり合点のことなら他人に押しつけないがいいのだから。
 何でこんなことを一々断わるかというと、人の言うことを次ぎから次ぎへと勘違いして歩く人があるからだ。僕は、これもひとり合点なのだが、大切なことなら誤解されてもかまわないと思っている。大切なことは誰にでも理解されるというわけに行かないもので、それでもその大切なことはそれをまともに聞く耳をいつでも持っている。第一、誤解されない、捩(ね)じ曲げられない、あくどく喰ってかかられないような大切なことなぞはいくらもありはしないのだ。ただそれほど大切でないことは誤解されることを用心しなければならない。もしそういう誤解が生じてそれを解かなければならないとしたら、その仕事はなにしろ馬鹿々々しいに違いないから。それほどいいその素樸というものはそれならどんなものか。それが実は、素樸などというものを好きになったお蔭で僕に説明ができないのだ。僕は僕の思いついた話や譬(たと)え話をして、僕が考えている素樸に見当をつけてもらうことにする。
 
 ここまでで対比は登場していません。
 何やらよくわかりませんが、「素朴」について、述べているようです。
 
 僕はファーブルやポアンカレーを素人考えで大そう好いているのだが、それは彼らの仕事の中身がつまっているからだ。僕は素人考えで好いているので、科学のことは何も知らない。僕の眼に映ったようなものは彼らの科学者としての仕事のほんの些細(ささい)な一部に過ぎないのだろう。だがそれならば、全体の仕事のほんの一部が、しかも科学者のことをまるで知らない一人の素人をそれほど感動させるとすれば、それは彼らの仕事の中身が全くひどくつまっているからだということになりはしなかろうか。例えば『昆虫記』の中で著者は綿々として話しかける。彼の中には天国ほども豊富な材料がある。天体の運行ほども正確な実験や観察の結果がある。そして彼自身には、それを語ろうとする大きな熱意だけがあって他意はない。彼は彼の話せるだけを話す。そしてそれっきりだ。彼は彼に対する愛憎を自然のように人まかせにしている。彼は行くところまで行き――その途中彼はただ行くことだけをする――そしてそこで倒れる。その仕事の仕振りは、いわばそのまま古典的であるほどにも水々しく、人をびっくりさせるほどにも素直である。
 
 ファーブルやポアンカレーが好き、そしてその理由について述べられています。
 でも、それだけです。
 
 ところが僕はいつかポアンカレーの『科学者と詩人』を読んだ。そしてそんな好きなポアンカレーがちっともおもしろくなかった。その本は何でも、亡くなったアカデミーの会員たちについて著者がいろいろな会合の席でした演説や雑誌に書いたものを集めて出来ていた。それらは、その物故した人たちの残した業績がどんなに大きかったか、それらの人たちが亡くなったいま我々はどんな大きな損失を感じなければならないかを主として説いていた。それらのいわば非常に優れた哀悼の言葉は、ポアンカレーの場合ある程度まで止むをえなかったのであろうが、亡くなった人々を褒めることに主眼をおいていた。そして何よりも先に当のポアンカレーは、アカデミーの最高の椅子に坐っている人であり、老人であり、そして彼の今までに打ち立ててきた学問上の業績は、彼が今その功績をたたえているブッコした数々の科学者たちのそれに比べて優るとも劣らないのである。こういうポアンカレーにとって、亡くなった人たちの業績を褒めたたえることは困難な仕事でない。それを学問上の(注3)ポレーミクに従うのに比べるなら、甚しく少なく自分を食いちぎる仕事である。学問上のポレーミクが、論敵の攻撃よりも自分自身の攻撃に懸っているのに反し、論敵の手で見事に暴露された自分自身の無力をどこまで逆に切り捌いて行くかに懸っているのに反し、甚しく余裕のある仕事である。ポレーミクにあるものは素樸であり、賞讃にあるものは優雅である。僕はポアンカレーのこの本を読んで人を褒めるということは何とむずかしいことかと感じ、俺は人をポアンカレーのように褒めることをしまいと考えた。
 
 好きだったポアンカレーがちっとも面白くない。
 このへんから、対比が始まりそうですね。
 なぜなら、「好き」と「好きではない(面白くない)」は対比だからです。
 
 もちろん僕はポアンカレーのように褒めることを問題にしているのであって一般に褒めることを問題にしているのではない。(注4)スウェルドロフが死んだ時に書いた(注5)ソスノウスキーの文章などはポアンカレーの哀悼の言葉とは性質が違う。ソスノウスキーの場合それは文字通りに哀悼の言葉であり、それの持っている嘆きの調子が人を打つほどに素樸に現われている。それは仲間の死を悲しんでいるのであって死んだ彼にどの椅子を許そうかと考えているのではない。こういうせっぱつまった状態は中身がつまっている。中身のつまっていないせっぱつまった状態なんてものはどこにもない。そして中身がつまっているということ、せっぱつまっているということは、その仕事に当人が身を打ち込んでいること、全身で歩いていることにほかならない。僕の考えている素樸というのはそういう態度を指している。
 
 出ました、対比です(わかりますか?)。
 ポアンカレーとソスノウスキーの対比。
 ここはちょっと注意して読まなければなりません。
 といっても、対応関係だけ明確にすればいいのです。
 
共通点=どちらも故人のことを書く
・ポアンカレー……面白くない……(下記の反対)
・ソスノウスキー…面白い…………文字通り哀悼の言葉、素朴、中味がつまっている、身を打ち込んでいる
 
 ポアンカレーの方は手を抜きました。面倒くさいからです。
 この段落の前段落でポアンカレーについて、いろいろ述べてはいますが、ソスノウスキーと表現上、対応していません。
 これを対応させながら考えるのは、時間をくいます。
 だから、必要(=問題が要求する)だったら考えますし、必要じゃなかったらそのままです。
 
 そこでそこからして僕は若干キテレツな次ぎのような考えを持っている。それは芸術家とか詩人とかいうものは、彼が芸術家とか詩人とかいうものからどこまで自分を切り裂いて行くかというところにその価値が懸ってくる、ということなのだ。制作をどこまで叩き上げるかということは、生活をどこまで叩き上げるかということを基礎にしない限りいくらやってみても堕落だと思うのだ。作家が生活を叩き上げるということは制作を叩き上げることによってしかなされないということが真理であるにもかかわらずだ。
 
 この段落では、対比の中でとりあげた「身を打ち込んでいる」を拡大しています。
 すなわち、「どこまで自分を切り裂いて行くか」です。
 そして、そのベースに「生活をどこまで叩き上げるか」ということがある、と述べています。
 
 
 (注6)ツルゲーネフと(注7)ドストエフスキーとを比べてみると、僕はドストエフスキーの方が生活を叩き上げることを知っていたと思う。僕の考えによればツルゲーネフは到底ドストエフスキーに及び難い。ドストエフスキーは自分の肉体で物語をこさえた。ツルゲーネフは小説をこさえるために生活した。ドストエフスキーの作にはどこにもドストエフスキーの血が湛(たた)えられている。ツルゲーネフのには、ツルゲーネフの何かは湛えられていようが血は湛えられていない。ツルゲーネフならどこからひっくり返して読んでもいいのが、ドストエフスキーではそう行かない。ドストエフスキーはほかのものに手を出さなかったがツルゲーネフはあれやこれやと手を出した。ツルゲーネフには芸術だけが問題であって、芸術というものがそれあっての物種(ものだね)であるところの肝腎の人間生活はあまり問題でなかった。だから彼は彼の以前の制作から脱却して次ぎの制作へ行った。しかし以前の制作を生んだ彼の以前の生活から手を切ることをしなかった。だから彼の制作は次々と現われても、それを裏づける彼の生活が発展したということにならない。ガラス窓のガラスの色を次ぎから次ぎへと取り換えたに過ぎない。そいつは溜り水だ。そいつの打ち方は臭い。じきにたまらなくなる。で、そうなれば、作家がいくら大作を次々に書いたところでその作家の価値が高まったとはいえなかろうと思うのだ。そういうのではつまり、作家が制作に身を打ち込むということが本当に実現されないと思うのだ。制作に生活を引きずられるのでなしに、生活を発展させるためにどこまで制作を削り落すかが大切だと考えるのだ。
 
 再び対比です。今度はツルゲーネフとドストエフスキー、ロシア文学の超大物です。
 でもそれはどうでもいいことです。何か知識を持っていたとしても、決して使ってはいけません。
 
 
 「僕はドストエフスキーの方が生活を叩き上げることを知っていたと思う」の一言で、ドストエフスキーの方がソスノウスキーの部類に入ることがわかります。
 あとは流して読みます。
 なぜならドストエフスキーは「文字通り哀悼の言葉、素朴、中味がつまっている、身を打ち込んでいる」+「生活をどこまで叩き上げるか」の側のはずですし、ツルゲーネフはその逆でなければならないからです。
 そして実際、その通りに文が展開されています。
 
 対比構造とれたならば、あとはそこから逸脱するものがないか、確認するだけでよいのです。
 ここでは「ドストエフスキーはソスノウスキー型」ということがわかれば、十分です。
 
 
 そこからして僕はまた、いい作家というものは新しい一つの仕事にそれまでのすべての仕事を打ち込むものだと考えている。最後の作の中へはその一つ手前までのいっさいをぶち込む。すべての経験、すべてのすでに取り扱われた対象、既に取り扱われた取扱い方、すべての大根(おおね)から小手先までの技術、そういうものいっさいをぶち込む。僕の考えによれば、このすべての瞬間にいっさいを叩き込むという態度こそ最も素樸な態度なのだ。
 人がこういう状態でいる時は誰もわき見したりつまらぬ気がねをしたりはしないだろう。その瞬間にやった自分の行為に対して註釈したり弁解したりしないだろう。そんなことはできないし、そんなことは吝(けち)臭く思われるだろう。で、僕は、作家なら作家は、彼の人間的価値を問うためには彼の制作上の価値だけを取り出して見せる覚悟を持つ必要があろうと考える。後世の全集編纂者や本屋の類が(注8)断簡零墨を蒐集するのはいいことだろうが、万一作家がそのことを全集編纂者や本屋の手代に期待して死ぬとあれば、彼は堕獄するしかあるまいと思うのだ。
 
 すごく情熱的に書いていますが、冷めた眼で見れば、ただの同義反復。これといって目新しい内容はありません。
 
 
 ここで僕は仕事というものについての僕の考えを書きつけることにする。おそらくそれもこの素樸ということに関係してくるだろうから。
 僕のひとり考えでは、仕事の価値はそれがどこまでそれを取り囲む人間生活の中に生き返るかにある。車輪の発明者を誰も記憶していない。だが車輪を使わない人間が一人もいないくらいに彼を記憶している。誰も車輪の発明者に感謝していない。しかし人間の残らずが車輪を使用しているということよりも立派な感謝状は一枚もないに違いない。我々はしばしば、歴史一般の中に掻き消されている力学の歴史、医学の歴史等々を忘れている。同様に芸術の歴史の中にしばしば掻き消されている芸術に関する学問の歴史を忘れている。また例えば演劇の歴史にしても、その中に撚り込められて素人には見えない演出の歴史、建築の歴史、照明の歴史等々を忘れている。忘れているどころか僕なぞはだいたい少しも知らない。そしてその無知からして、我々自身の文字となって残るような仕事だけが仕事だと思い込み、それがそれとして人の眼に映るために千万無量のお蔭を蒙っている眼に見えない仕事、瞬間に消えてゆくような仕事を仕事だとも思わないようになる。それは間違っており、無知であるために不遜であるところのものであり、仕事の価値を真実に知っており、それゆえこういう輩からは永久に顧みられないような仕事を一生の仕事としてコツコツと築いてゆくような賢い人たちからは憐まれるところのものであろう。こういう本当の賢さを持った人たちから笑われ憐まれることのないような考え方こそ、僕は、我々の持つべき仕事に対する素樸な考え方だと考えている。
 
 話が「仕事」に移っています。
 でもやはり対比は使用されています。「本当の賢さを持った人たち」と、そうではない人たち、です。
 ここは対比と捉えなくてもよいのですが、対比と捉えた方が楽ですし、対比の練習でもありますので、対比と捉えておきます。
 
・賢い人……車輪の発明など、感謝状なし、仕事の価値を知っている、(下記の逆)
・(そうでない人)……文字となって残る仕事だけが仕事と思っている、(感謝状あり?)
 
 いまひとつ美しくありませんが、自分で中味がわかれば十分なので、これで十分とします。
 必要なら、問題を解くときに見直せばいいのです。
 
 さて、これで課題文分析は終了です。
 あとはこれをまとめてやればいいだけです。
 まとめ方は簡単です。対比の片方(中心になっている方)にデータを集めてしまえばいいだけです。
 文にすると難しそうですが、実際は簡単です。
 例えば、こんな具合です。キーワードをあげてみます。
 
 素朴、中味がつまっている、身を打ち込んでいる、生活をどこまで叩き上げるか、車輪の発明など、感謝状なし、仕事の価値を知っている、文字となって残る仕事だけが仕事とは思っていない
 
 あとは繋げるだけ。かなりアバウトです。キーワード全部を使うとも限りません。
 まずは、まとめる方が先です。
 
 →身を打ち込んだ仕事で、中味が詰まっている仕事を行うには、生活をどこまで叩き上げるかが重要である。筆者はこうした態度をとる人を「賢い人」と称し、仕事の価値を知っている人とする。
 
 「素朴」を入れ忘れました。さすがに「素朴」は入れた方がいいですね。
 
 →身を打ち込んだ仕事で、中味が詰まっている仕事を行うには、生活をどこまで叩き上げるかが重要である。筆者はこうした態度をとる人を「賢い人」と称し、仕事の価値を知っている人とする。また、こうした人たちの仕事に対する態度を、筆者は「素朴」と称している。
 
 追加しておきました。やり方はいろいろあると思います。
 
 
この問題を選んだ理由                           
 
 ここまで来ると、私がこの問題を選んだ理由もご理解いただけたかと思います。
 この問題は対比がわかりやすいのです。
 対比の練習にはぴったりです。
 
 今日はこれで終了します。
 次に問題に入りますが、対比がどのように問題に用いられているか、注意して見ておいてください。
 (もちろん、すべての問題が対比によって成立しているわけではありませんが)
" dc:identifier="http://kyoukoku.hyakunin-isshu.net/2012%E7%AB%8B%E6%95%99%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%83%A8/2012%E7%AB%8B%E6%95%99%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%83%A8%20%E8%AA%B2%E9%A1%8C%E6%96%87%E3%81%AE%E5%88%86%E6%9E%90" /> -->

2012立教大学文学部

今回は立教大学の問題です
センターも間近ですが、あえてこの問題をセレクトしてみました

2012立教大学文学部 問題                          

 次の文章を読んで後の設問に答えよ。
 
 だいたい僕は世の中で素樸というものがいちばんいいものだと思っている。こいつはいちばん美しくていちばん立派だ。こいつは僕を感動させる。こいつさえ捕まえれば――と、そう僕は年中考えている。
 ところで、僕は今ここでその素樸についてお喋りしようというのだが、考えてみるとてれ臭くないわけではない。なぜといって、(1)素樸はそれについて語ることのできないものだから。それについて語ることは素樸でないだろうから。それを敢えてしようとするのだから。第一、素樸が好きだとか何だとかいってみても、それは理窟はいろいろとつけられようけれど、個人の好みや、生理的関係にもよるのだろうし、たとえそれを僕が芸術上の信条としているとしても、結局それは僕のひとり合点のことで、ひとり合点のことなら他人に押しつけないがいいのだから。
 何でこんなことを一々断わるかというと、人の言うことを次ぎから次ぎへと勘違いして歩く人があるからだ。僕は、これもひとり合点なのだが、大切なことなら誤解されてもかまわないと思っている。大切なことは誰にでも理解されるというわけに行かないもので、それでもその大切なことはそれをまともに聞く耳をいつでも持っている。第一、誤解されない、捩(ね)じ曲げられない、あくどく喰ってかかられないような大切なことなぞはいくらもありはしないのだ。ただそれほど大切でないことは誤解されることを用心しなければならない。もしそういう誤解が生じてそれを解かなければならないとしたら、その仕事はなにしろ馬鹿々々しいに違いないから。それほどいいその素樸というものはそれならどんなものか。それが実は、素樸などというものを好きになったお蔭で僕に説明ができないのだ。僕は僕の思いついた話や譬(たと)え話をして、僕が考えている素樸に見当をつけてもらうことにする。
 僕は(注1)ファーブルや(注2)ポアンカレーを素人考えで大そう好いているのだが、それは彼らの仕事の中身がつまっているからだ。僕は素人考えで好いているので、科学のことは何も知らない。僕の眼に映ったようなものは彼らの科学者としての仕事のほんの些細(ささい)な一部に過ぎないのだろう。だがそれならば、全体の仕事のほんの一部が、しかも科学者のことをまるで知らない一人の素人をそれほど感動させるとすれば、それは彼らの仕事の中身が全くひどくつまっているからだということになりはしなかろうか。例えば『昆虫記』の中で著者は綿々として話しかける。彼の中には天国ほども豊富な材料がある。天体の運行ほども正確な実験や観察の結果がある。そして彼自身には、それを語ろうとする大きな熱意だけがあって他意はない。彼は彼の話せるだけを話す。そしてそれっきりだ。彼は彼に対する愛憎を自然のように人まかせにしている。彼は行くところまで行き――その途中彼はただ行くことだけをする――そしてそこで倒れる。その仕事の仕振りは、いわばそのまま古典的であるほどにも水々しく、人をびっくりさせるほどにも素直である。
 ところが(2)僕はいつかポアンカレーの『科学者と詩人』を読んだ。そしてそんな好きなポアンカレーがちっともおもしろくなかった。その本は何でも、亡くなったアカデミーの会員たちについて著者がいろいろな会合の席でした演説や雑誌に書いたものを集めて出来ていた。それらは、その物故した人たちの残した業績がどんなに大きかったか、それらの人たちが亡くなったいま我々はどんな大きな損失を感じなければならないかを主として説いていた。それらのいわば非常に優れた哀悼の言葉は、ポアンカレーの場合ある程度まで止むをえなかったのであろうが、亡くなった人々を褒めることに主眼をおいていた。そして何よりも先に当のポアンカレーは、アカデミーの最高の椅子に坐っている人であり、老人であり、そして彼の今までに打ち立ててきた学問上の業績は、彼が今その功績をたたえているブッコした数々の科学者たちのそれに比べて優るとも劣らないのである。こういうポアンカレーにとって、亡くなった人たちの業績を褒めたたえることは困難な仕事でない。それを学問上の(注3)ポレーミクに従うのに比べるなら、(3)甚しく少なく自分を食いちぎる仕事である。学問上のポレーミクが、論敵の攻撃よりも自分自身の攻撃に懸っているのに反し、論敵の手で見事に暴露された自分自身の無力をどこまで逆に切り捌いて行くかに懸っているのに反し、甚しく余裕のある仕事である。ポレーミクにあるものは素樸であり、賞讃にあるものは優雅である。僕はポアンカレーのこの本を読んで人を褒めるということは何とむずかしいことかと感じ、俺は人をポアンカレーのように褒めることをしまいと考えた。
 もちろん僕はポアンカレーのように褒めることを問題にしているのであって一般に褒めることを問題にしているのではない。(注4)スウェルドロフが死んだ時に書いた(注5)ソスノウスキーの文章などはポアンカレーの哀悼の言葉とは性質が違う。ソスノウスキーの場合それは文字通りに哀悼の言葉であり、それの持っている嘆きの調子が人を打つほどに素樸に現われている。それは仲間の死を悲しんでいるのであって死んだ彼にどの椅子を許そうかと考えているのではない。こういうせっぱつまった状態は中身がつまっている。中身のつまっていないせっぱつまった状態なんてものはどこにもない。そして中身がつまっているということ、せっぱつまっているということは、その仕事に当人が身を打ち込んでいること、全身で歩いていることにほかならない。僕の考えている素樸というのはそういう態度を指している。
 そこでそこからして僕は若干キテレツな次ぎのような考えを持っている。それは(4)芸術家とか詩人とかいうものは、彼が芸術家とか詩人とかいうものからどこまで自分を切り裂いて行くかというところにその価値が懸ってくる、ということなのだ。制作をどこまで叩き上げるかということは、生活をどこまで叩き上げるかということを基礎にしない限りいくらやってみても堕落だと思うのだ。作家が生活を叩き上げるということは制作を叩き上げることによってしかなされないということが真理であるにもかかわらずだ。
 (注6)ツルゲーネフと(注7)ドストエフスキーとを比べてみると、僕はドストエフスキーの方が生活を叩き上げることを知っていたと思う。僕の考えによればツルゲーネフは到底ドストエフスキーに及び難い。ドストエフスキーは自分の肉体で物語をこさえた。ツルゲーネフは小説をこさえるために生活した。ドストエフスキーの作にはどこにもドストエフスキーの血が湛(たた)えられている。ツルゲーネフのには、ツルゲーネフの何かは湛えられていようが血は湛えられていない。ツルゲーネフならどこからひっくり返して読んでもいいのが、ドストエフスキーではそう行かない。ドストエフスキーはほかのものに手を出さなかったがツルゲーネフはあれやこれやと手を出した。ツルゲーネフには芸術だけが問題であって、芸術というものがそれあっての物種(ものだね)であるところの肝腎の人間生活はあまり問題でなかった。だから彼は彼の以前の制作から脱却して次ぎの制作へ行った。しかし以前の制作を生んだ彼の以前の生活から手を切ることをしなかった。だから彼の制作は次々と現われても、それを裏づける彼の生活が発展したということにならない。ガラス窓のガラスの色を次ぎから次ぎへと取り換えたに過ぎない。そいつは溜り水だ。そいつの打ち方は臭い。じきにたまらなくなる。で、そうなれば、作家がいくら大作を次々に書いたところでその作家の価値が高まったとはいえなかろうと思うのだ。そういうのではつまり、作家が制作に身を打ち込むということが本当に実現されないと思うのだ。制作に生活を引きずられるのでなしに、生活を発展させるためにどこまで制作を削り落すかが大切だと考えるのだ。
 そこからして僕はまた、いい作家というものは新しい一つの仕事にそれまでのすべての仕事を打ち込むものだと考えている。最後の作の中へはその一つ手前までのいっさいをぶち込む。すべての経験、すべてのすでに取り扱われた対象、既に取り扱われた取扱い方、すべての大根(おおね)から小手先までの技術、そういうものいっさいをぶち込む。僕の考えによれば、このすべての瞬間にいっさいを叩き込むという態度こそ最も素樸な態度なのだ。
 人がこういう状態でいる時は誰もわき見したりつまらぬ気がねをしたりはしないだろう。その瞬間にやった自分の行為に対して註釈したり弁解したりしないだろう。そんなことはできないし、そんなことは吝(けち)臭く思われるだろう。で、僕は、作家なら作家は、彼の人間的価値を問うためには彼の制作上の価値だけを取り出して見せる覚悟を持つ必要があろうと考える。後世の全集編纂者や本屋の類が(注8)断簡零墨を蒐集するのはいいことだろうが、万一作家がそのことを全集編纂者や本屋の手代に期待して死ぬとあれば、彼は堕獄するしかあるまいと思うのだ。
 ここで僕は仕事というものについての僕の考えを書きつけることにする。おそらくそれもこの素樸ということに関係してくるだろうから。
 僕のひとり考えでは、仕事の価値はそれがどこまでそれを取り囲む人間生活の中に生き返るかにある。車輪の発明者を誰も記憶していない。だが車輪を使わない人間が一人もいないくらいに彼を記憶している。誰も車輪の発明者に感謝していない。しかし人間の残らずが車輪を使用しているということよりも立派な感謝状は一枚もないに違いない。我々はしばしば、歴史一般の中に掻き消されている力学の歴史、医学の歴史等々を忘れている。同様に芸術の歴史の中にしばしば掻き消されている芸術に関する学問の歴史を忘れている。また例えば演劇の歴史にしても、その中に撚り込められて素人には見えない演出の歴史、建築の歴史、照明の歴史等々を忘れている。忘れているどころか僕なぞはだいたい少しも知らない。そしてその無知からして、我々自身の文字となって残るような仕事だけが仕事だと思い込み、それがそれとして人の眼に映るために千万無量のお蔭を蒙っている眼に見えない仕事、瞬間に消えてゆくような仕事を仕事だとも思わないようになる。それは間違っており、無知であるために不遜であるところのものであり、仕事の価値を真実に知っており、それゆえこういう輩からは永久に顧みられないような仕事を一生の仕事としてコツコツと築いてゆくような賢い人たちからは憐まれるところのものであろう。こういう(5)本当の賢さを持った人たちから笑われ憐まれることのないような考え方こそ、僕は、我々の持つべき仕事に対する素樸な考え方だと考えている。
(中野重治「素樸ということ」筑摩書房による)
(注) 
1 ファーブル――フランスの昆虫学者(一八二三~一九一五)。
2 ポアンカレー――フランスの数学者・物理学者(一八五四~一九一二)。
3 ポレーミク――ドイツ語で「論争」、「論戦」のこと。
4 スウェルドロフ――ロシアの革命家・政治家(一八八五~一九一九)。
5 ソスノウスキー――ロシアの革命家、ソ連の政治活動家、ジャーナリスト、政治評論家(一八八六~一九三七)。
6 ツルゲーネフ――ロシアの小説家(一八一八~一八八三)。
7 ドストエフスキー――ロシアの小説家(一八二一~一八八一)。
8 断簡零墨――きれぎれになった書きものや文書の断片。
 
問 
(C) ―――線部(1)について。なぜ「素樸」はそれについて語ることができないのか。その説明として最も適当なもの一つを、次記各項の中から選び、番号で答えよ。
1 素樸とは、愚直に真理を追求する態度であり、それがどのような結果になろうと関係ないから。
2 素樸とは、寡黙さのなかに蓄えられた熱意であり、言葉で語らないこと自体に意味があるから。
3 素樸とは、周囲の誤解を恐れず、他人からみれば馬鹿々々しく思える仕事に没頭することだから。
4 素樸とは、目の前の仕事に全身全霊で打ち込み、脇目もふらずに瞬間を駆け抜けることだから。
5 素樸とは、自分をせっぱつまった状態に追い込む力であり、当人にもその状態を説明できないから。
 
(D) ―――線部(2)について。「僕」はなぜ、『科学者と詩人』を読んだときポアンカレーがちっともおもしろくないと感じたのか。その説明として最も適当なもの一つを、次記各項の中から選び、番号で答えよ。
1 すでに学問上の権威と化したポアンカレーが、自分の論敵を褒めたたえることで、逆に自らの地位を高めようとしているように感じられたから。
2 生前は学問上のライバルであったはずの科学者が亡くなったとたんに、態度を豹変させて褒めそやすポアンカレーのしたたかさが透けてみえたから。
3 亡くなった人に対して、どのような言葉で哀悼の意を表すれば周囲が納得するかを知悉(ちしつ)しているポアンカレーの態度が傲慢に感じられたから。
4 亡くなった人間の存在性よりも、残された自分がどれほど大きな損失を感じているかを強調するポアンカレーの計算高さが鼻についたから。
5 自分は少しも心を乱すことなく、亡くなった論敵を上手に褒めたたえるポアンカレーのもの言いが、緊張感に欠けているように思えたから。
 
(E) ―――線部(3)について。「甚しく少なく自分を食いちぎる仕事」とあるが、筆者はそれをどのようなものに喩(たと)えているか。本文中の表現を抜き出して記せ。
 
(F) ―――線部(4)について。「芸術家とか詩人とかいうものは、彼が芸術家とか詩人とかいうものからどこまで自分を切り裂いて行くかというところにその価値が懸ってくる」とはどういうことか。その説明として最も適当なもの一つを、次記各項の中から選び、番号で答えよ。
1 芸術家や詩人にとって、制作することと生活することは同一であり、自分という存在を食いちぎり続ける不断の営みだけが価値をもつということ。
2 芸術家や詩人は、生活を発展させるためにどこまで制作を削り落とすことができるかを考え、より厳選された作品だけを遺そうとすることが大切だということ。
3 芸術家や詩人にとって重要なのは、生活を叩き上げることであり、次々と新しい制作に打ち込んでいくこともまた、生活を発展させるための方策だということ。
4 芸術家や詩人は、自分が過去に制作したものはもちろん、生活のなかに安住しようとする気持ちすら棄て去り、常に新しい価値を追求しなければならないということ。
5 芸術家や詩人が後世に伝えることができるのは、制作上の価値だけであり、彼自身がどのような人間で、どのような生活を送ったかを問う必要はないということ。
 
(G) ―――線部(5)について。「本当の賢さを持った人たちから笑われ憐まれることのないような考え方」とはどのような考え方か。その説明として最も適当なもの一つを、次記各項の中から選び、番号で答えよ。
1 一生にわたって、長い時間をかけてコツコツと築きあげた仕事こそ意味のある仕事であり、その評価は後世に委ねればよいとする考え方。
2 仕事の価値は、それがどれだけ人間生活の営みに還元されたかによって問われるものであり、自分の名前が残るかどうかは問題にしないような考え方。
3 歴史のなかで掻き消されてしまった名もない人々の尽力に感謝し、眼に見えない仕事を誠実にこなせる人間こそ賢人であるとする考え方。
4 文字となって残るような仕事だけが仕事だと思い込んでいた自分の無知と不遜に気づき、それを改めることによって、仕事の真価に近づこうとする考え方。
5 よりよい仕事をすることが人間的価値を高めることにつながるという信念をもって自分の仕事に邁進(まいしん)し、周囲の評価に頓着(とんじゃく)しない考え方。
 
(H) 次記各項のうち、本文の内容と合致するものを1、合致しないものを2として、それぞれ番号で答えよ。
 
イ ファーブル『昆虫記』の魅力は肉体の思考を実験や観察で裏付けているところにある。
ロ 作家は、自分の作品について後から注解を加えるようなことをしてはならない。
ハ 人間には、自分の仕事に誠実に取り組み、それを社会に役立てていく責任がある。
ニ 自分がそれほど大切だと思っていないことで他人から誤解されるのは煩わしい。
ホ ツルゲーネフにとって、作品を書くことと自分がどう生きるかは別問題だった。
" dc:identifier="http://kyoukoku.hyakunin-isshu.net/2012%E7%AB%8B%E6%95%99%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%83%A8/2012%E7%AB%8B%E6%95%99%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%83%A8" /> -->

平成17年本試評論 問4

 なぜか問4が欠落していました
 多分、私のミスではないかと思います
 不慣れなためとはいえ、ご迷惑をおかけしました
 急ぎ、再録します

以下再録                                 

 昨日は結構もりだくさんでした。きちんと消化できましたか?
 今日の内容に入る前に、まずこれまでの対比の確認をしておきましょう。
 
  人間の眼……絵画・写真……剰余の眼差し○
  カメラのレンズ……映画(……剰余の眼差し×)
 
 並べてしまえば、これだけのことです。
 結構単純なんですが、本文は細かい説明が展開されていますので、なかなか気がつきません。
 この構造を頭に入れた上で、何度でも課題文を読み返してください。
 そして、文のリズムを体で感じ取ってください。
 究極的にいえば、文のリズムは頭で考えてもわかりません。体で感じとるものなんです。
 文のリズムを体で感じ取ることができるようになれば、私の方法論は不要になります。
 逆説的ですが、そんなもんです。
 
 考えなくても感じ取れるようになるまでは、ひとつひとつ頭を使うしかありません。
 その積み重ねによって、頭を使わずにリズムを汲み取れるようになる。
 そうするしかないんです。
 悲しいけど、こんなもんなんです。
 
 へこんでいても、しょうがないですね。今日の内容に入ります。
 
 
問題のすれ違い                              
 
 問4は、問題の設定自体にトリックがあります。
 このトリックに気がつかなければ、自分が何をやっているのか、何を求めているのか、わからなくなります。
 
問4 傍線部C「映画が映画であるのは、この速度を産み出す時間に依存している」とあるが、筆者は「映画」が「時間に依存している」ことでどのような結果が生じたと考えているか。
 
 傍線部を確認します。
 
 「映画が映画であるのは、この速度を産み出す時間に依存している」
 
 要するに、映画が映画であるのは、「時間」があるからだ、ということですね。
 逆に言えば、絵画や写真には「時間」がない。
 これは何となくイメージできるのではないでしょうか。映画には始まりがあり、終わりがある。ということは、その間に時間が存在するということですね。もっと噛み砕いて言えば、映画を見るのには時間が必要ということです。
 でも絵画や写真には始まりもなければ、終わりもない。ということは、その間に時間は存在しないということです。もっと噛み砕いて言えば、絵画や写真は5秒でパスしても、24時間じっと見ていても問題はない、ということです。映画ではこうはいかない。絵画や写真を見る時には、時間の制限はないわけで、その意味で時間は存在しない、といえるわけです。
 
 こうした解釈は、本当はやるべきではないのかもしれませんが(自分の言葉で説明するのは無根拠になりがちで、その分、危険でもあるからです)、大体はこんなところでしょう。これで問題が解けそうですね。
 
 でも、そうじゃないんです。
 求められていることは、そういうことではないんです。
 
 求められていることは何か。問題文を引用します。
 
   筆者は「映画」が「時間に依存している」ことでどのような結果が生じたと考えているか。
 
 そう、映画が時間に依存していることで、「どのような結果が生じたか」ということなんです。
 「映画が時間に依存している」とは「どういうことか」ではないんです。
 
 ここを読み違えると、話はずいぶんややこしい方向へと進んでいきます。
 「どのような結果が生じたか」、と「どういうことか」の違いですからね。
 全然違います。
 全く、油断も隙もあったもんじゃありません。
 
 
微妙ないいかえ(同義反復)                        
 
 では、「求められていること」を意識しながら、課題文の続きを読んでいきましょう。
 
 だが映画はそうした眼差しの無用さ、無償性を許そうとはせず、あくまで特定の視点を強要し、さらにわれわれがそれに見入っている時間に至るまできびしく制限しようとする、独占的なメディアと言うべきではなかっただろうか。
 かつて映画は時間の芸術という美しい名前で呼ばれた時代があった。しかもそれは時間とスピードに魅せられ、幻惑された二十世紀を象徴する言葉でもあっただろう。映画はそのフィルムのひと齣、ひと齣が、一秒間に二十四齣という眼にはとまらぬ速度で動くことによって、網膜に残像がしるしづけられ、われわれはそれを連続する映像として見るのである。そのかぎりでは映像のひと齣、ひと齣に加えられた速度、時間を停止してしまえば、映し出されているものは一枚の写真とかわらず、絵のタブローと同様にわれわれの眼が自由にそれを見ることができるはずである。
 従ってC映画が映画であるのは、この速度を産み出す時間に依存しているのであり、それはフィルムのひと齣、ひと齣の動きのみならず、一時間、あるいは二時間と連続して映写される時間の流れを誰もが疑わず、停止しようとはしなかったからであった。そして息つく間もないスピードの表現であることが、わずか二時間たらずのあいだに人間の一生を描くことができた理由であり、神による天地創造の神話から一億光年の彼方の宇宙の物語まで映画は語りえたのである。
 
 最初の「だが映画は……」の段落は、絵画・写真と比較してのことです。修飾語が多いので適当に省略して言えば、「映画は独占的なメディアというべきではなかっただろうか」といってるだけです。だって「剰余の眼」の一点に注ぎ込ませるし、時間の制約もするからです。これを一文でいえば、課題文のようになるんですね。
 次の段落では、映画と時間との関係を指摘します。時間をとめてしまえば、映画は一枚のタブローにすぎない。そりゃそうでしょう。時間をとめたら、そのシーンで画像がとまっちゃうでしょうからね。写真と何も変わらない。
 
 このへんまでは「時間に依存する」ことについて、くどくどと説明しているだけです。
 「時間に依存している結果」はまだ登場しません。
 山場は次の段落です。
 
 傍線を含む一文を確認します。
 
 従ってC映画が映画であるのは、この速度を産み出す時間に依存しているのであり、それはフィルムのひと齣、ひと齣の動きのみならず、一時間、あるいは二時間と連続して映写される時間の流れを誰もが疑わず、停止しようとはしなかったからであった。
 
 全体は2つの文により構成されています。
 
 ・従ってC映画が映画であるのは、この速度を産み出す時間に依存しているのであり、
 ・それはフィルムのひと齣、ひと齣の動きのみならず、一時間、あるいは二時間と連続して映写される時間の流れを誰もが疑わず、停止しようとはしなかったからであった。
 
 前半はもういいでしょう。映画が映画であるのは、時間に依存しているから、ということです。前述のとおり、絵画・写真との対比で読むのがコツです。
 後半は、「それは」と代名詞が使われているので、やや読みにくくなっていますが、「それ」の内容は、もちろん「映画が映画である(こと)」です。映画が映画であるのは、誰も時間を止めなかったからだ、というわけです。
 時間をとめたら、ただの写真になっちゃいますからね。
 
 今回は、傍線部を含む一文を確認しても、何もありませんでした。要するに、ただの繰り返しです。
 重要なのは次です。
 
そして息つく間もないスピードの表現であることが、わずか二時間たらずのあいだに人間の一生を描くことができた理由であり、神による天地創造の神話から一億光年の彼方の宇宙の物語まで映画は語りえたのである。
 
 この問題でもっとも重要なのはここです。
 
 「息つく間もないスピードの表現であることが」の意味がわかりますか?
 「息つく間もないスピードの表現である」とは「映画が」息つく間もないスピードの表現である、ということで、これは「映画は時間に依存している」ということの別表現(いいかえ、同義反復)なんです。
 
 今回は、ここがポイントになります。
 
 すなわち、映画は時間に依存しているから、「わずか二時間たらずのあいだに人間の一生を描くことができた」のであり、「神による天地創造の神話から一億光年の彼方の宇宙の物語まで映画は語りえた」のです。
 
 今回は、これで解答はでました。つまり、映画が時間に依存している結果、
  ・わずか二時間たらずのあいだに人間の一生を描くことができた
  ・神による天地創造の神話から一億光年の彼方の宇宙の物語まで映画は語りえた
のです。
 
  
主文中心に選択肢を確かめる                        
 
 仕上げに選択肢を確認しておきましょう。
 
①映画は、人間の一生をわずか二時間たらずで映し出すことを可能にしたが、観客をひきつける動く映像の迫真性によって、国家権力やコマーシャリズムに利用されてしまうという結果になった。

②映画は、一秒間に二十四齣というフィルムの映写速度で観客の眼差しを支配し、神話などの虚構まで表現することを可能にしたが、そうした錯覚によるまやかしは見ることの死をもたらした。

③映画は、限られた時間のなかで壮大な時空間を描き出すようなことを可能にしたが、映画に見入っている時間をきびしく制限しようとすることで、観客の眼差しを抑圧してしまうことになった。

④映画は、息つく間もないスピード感に満ちた物語や広大な宇宙の物語を表現することをも可能にしtが、ゆるやかに移ろいゆく時間を、反復とずれによって表現することが不可能になった。

⑤映画は、画像が連続する新しい芸術として発展したが、ひとたびその速度に慣らされてしまった観客には、絵画や写真のように静止した画像と内面でゆっくりと対話することが困難になった。
 
 今回は趣向をかえて、(大雑把にですが)主文だけをとりだしてみます。
 
①映画は、国家権力やコマーシャリズムに利用されてしまうという結果になった。
②映画は、そうした錯覚によるまやかしは見ることの死をもたらした。
③映画は、観客の眼差しを抑圧してしまうことになった。
④映画は、ゆるやかに移ろいゆく時間を、反復とずれによって表現することが不可能になった。
⑤観客には、絵画や写真のように静止した画像と内面でゆっくりと対話することが困難になった。
 
……正解は③しかありませんよね。
 
 一応、確認していきましょう。
①の国家権力やコマーシャリズムって、何のことなんでしょう?後で登場しますが、ここでは無関係です。
②も「錯覚のまやかし」って何でしょうか?関係ないですね。
④は「時間を……表現する」って何?時間を表現する?何のことでしょう?
⑤は観客は関係ない、とは言えませんが(「見る」のは観客ですから)、でも内面との対話?何のことでしょう?
 
 いずれも、「何のこと?」という内容ばかりですね。
 
 今日の内容は、
①問題はよく読まないと、引用文と求められている内容とが食い違っている時がある(要注意)
②選択肢は主文中心に攻めるのが効果的
 
 ただし、②については、いつもそうだとは限りません。
 方法の一つとして理解しておいてください。
" dc:identifier="http://kyoukoku.hyakunin-isshu.net/%E5%B9%B3%E6%88%9017%E5%B9%B4%E6%9C%AC%E8%A9%A6%E8%A9%95%E8%AB%96/%E5%B9%B3%E6%88%9017%E5%B9%B4%E6%9C%AC%E8%A9%A6%E8%A9%95%E8%AB%96%20%E5%95%8F%EF%BC%94" /> -->

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